真言宗と空海
こうして空海は、809年京にはいることを許され、高野山で真言宗の法灯を掲げることが出来るようになりました。
こうして、最澄(天台宗の完成の為に密教を取り入れようとした)と空海の交流が始まったのですが、813年、最澄より「理趣経釈」(理趣経の注釈書で、密教の経典の中でも最も大切なものであり、密教をよほど深くおさめないと読む資格がない)で、二人は対立し袂を分かつようになります。
その間空海は、各地の土木工事を指揮したり、讃岐の国の満濃池の堤を造成したり、(いまだに当時のまま残されており、現代の土木工法でもびっくりするくらいらしい)庶民教育の学校「綜芸種智院」を作ったり、と精力的に活動してきたのです。
823年、時の帝嵯峨天皇より東寺の完成を命じられます。東寺が完成したのは空海の生前ではなく839年のことです。そして、824年には、神泉苑(しんせんえん)において雨乞いの修法を行い、干ばつにあえぐ人々の信望を集めたとあります。
その空海も死からは逃れられません!先行きの短いことを知った空海は、京を離れ高野山にこもります。弟子達をそれぞれの任に尽かせて、835年3月21日、56億7千万年ののち、弥勒菩薩がこの世に出られるまで、生きとし生けるものすべてを見守るという誓願のもと、永遠の禅定に入り弟子たちの前から姿を消したのです。
空海の伝説は各地にあります。全国の温泉の3分の1は空海が見つけたことになっていいたり、そのほかの様々な奇跡は空海が起こしたことになったりしています。それは、事実と異なっているでしょうが、それほど空海は民衆の為に尽くしてきたことがわかります。
921年、醍醐天皇は空海にその功績を称えて弘法大師の称号を送ったのです。その報告のため高野山に上った東寺長者の観賢は、禅定に入ったままの空海の姿に会ったと伝えられています。
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