◇不屈のひみつ
●海外で大赤字、今や収益の柱
茂木友三郎(もぎ・ゆうざぶろう)さん
キッコーマン会長
1935年生まれ。58年キッコーマン入社。95年社長。2004年会長。中央教育審議会副会長、新しい日本をつくる国民会議の共同代表なども務める。
「米国では、“良き企業市民”として絶えず社会に貢献することの大切さを、改めて学んだ」=多田貫司撮影
キッコーマンが米国でしょうゆ販売を始めて今年で50年。今では海外事業が収益の柱となった。その原点となるのが、1973年の米ウィスコンシン州への工場進出だ。
地元は猛反対
茂木は当時、海外事業部員として中心的な仕事にあたった。入社後の60年ごろ、米コロンビア大に留学した経験を買われてのことだ。
留学生時代、現地のスーパーでしょうゆの販売を手伝ったことがある。しょうゆで味付けした肉を試食してもらうと、多くの人に喜ばれた。その時、「米国でも必ずしょうゆは広く受け入れられる」と感じた。さらに「現地に工場を作れば、輸出より輸送費も少ない」とも思った。
提案が会社に受け入れられ71年、米国への工場建設が決まった。当時、まだ海外に工場を持つ日本企業はほとんどなかった。建設予定地の地元の農家たちは、「環境が破壊される」と猛反対。茂木は地元団体や農家に何度も足を運び、懸命に説得した。
住民の同意を得て73年に工場は操業を開始。すると、次は別の苦難が待っていた。
同年秋の石油危機で、しょうゆの原料となる穀物価格も急騰。米国事業は予想外の大赤字になった。米国工場への初期投資額は、当時のキッコーマンの資本金とほぼ同じという大きさ。失敗すれば会社の存続さえ危ぶまれる。
茂木への風当たりも強くなった。74年初めには体調を崩し、急性肺炎で一月半も入院した。「会社を辞めなくてはいけないかな」。病床では弱気な考えも頭をよぎった。
しかし、75年になると急に売り上げが伸びた。販路を広げたことが実を結んだ。「日本と同じ味のしょうゆを作る」とこだわった品質も認められた。76年には過去の赤字がすべて帳消しになった。
現在、しょうゆは世界中に広まり、「キッコーマン」がしょうゆの代名詞ともなった。「米国でゼロから始めたチャレンジ精神が、今も原動力になっている」と語る。
あえて困難に挑む
茂木は95年に社長に就任した後も挑戦を続ける。つゆやたれなど「しょうゆ関連調味料」への本格参入がそれだ。
国内のしょうゆ市場は頭打ち。スーパーの安売り合戦もあり、「しょうゆだけで今まで通りの利益を出すのは難しい」と考えた。つゆやたれなら今後、需要増が見込める。
「しょうゆこそ本業」と、社内には異論も出た。それでも「挑戦を続ける海外事業に比べ、国内事業はおとなしすぎる」と、茂木は社内の反対を押し切った。現在、売り上げは順調に伸びている。
茂木は本業のほか、他企業の社外取締役や国の審議会の委員などの要職も数多くこなす。息つく間もない忙しさだ。そこには、「あえて難しいことに挑むことが成長につながる」との信念がある。
挑戦3か条
@人まねはするな
安易に他人の○○はしない。絶えず新たなことに取り組んでいこう。
A困難を避けるな
あえて難しい道を選ぼう。苦労した分だけその後の成長が期待できる。
Bリスクを恐れるな
生産や○○などの現場の一人一人が攻めの姿勢で挑む企業体質作りが重要だ。
(敬称略)田中左千夫
(2007年1月31日 読売新聞)
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今日のニュースは、インターネット上で掲載されるニュースの中から、その
日の出来事を簡単に占い的に分析をするものです。ですから、事件の内容や
様々ないきさつに言及するものではなく、純粋に運命式からそういうような
事件や出来事に関わるような可能性について簡単に説明するものです。即興
的な文章ですから、その辺を加味してお読みくださればありがたく思います。
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◆キャリアを積んで、それをうまく生かすことで自分の運勢の波に乗る。
入社後の60年ごろ、米コロンビア大に留学した経験がある。
留学生時代、現地のスーパーでしょうゆの販売を手伝ったことがある。しょうゆで味付けした肉を試食してもらうと、多くの人に喜ばれた。その時、「米国でも必ずしょうゆは広く受け入れられる」と感じた。さらに「現地に工場を作れば、輸出より輸送費も少ない」とも思った。
提案が会社に受け入れられ71年、(36才位)米国への工場建設が決まった。当時、まだ海外に工場を持つ日本企業はほとんどなかった。建設予定地の地元の農家たちは、「環境が破壊される」と猛反対。茂木は地元団体や農家に何度も足を運び、懸命に説得した。
住民の同意を得て73年(38才位)に工場は操業を開始。すると、次は別の苦難が待っていた。
茂木友三郎(もぎ・ゆうざぶろう)さんの運命式を出してみよう!
<茂木友三郎(もぎ・ゆうざぶろう)さんの占い運命式>
24 12 19
20 28 11
24 16 20
13 9 18 22 22 18 18 22
14 9 18 23 23 18 18 23
渡辺正太郎さんの経営の考え方は次のようである。
★挑戦3か条
@人まねはするな
安易に他人の○○はしない。絶えず新たなことに取り組んでいこう。
A困難を避けるな
あえて難しい道を選ぼう。苦労した分だけその後の成長が期待できる。
Bリスクを恐れるな
生産や○○などの現場の一人一人が攻めの姿勢で挑む企業体質作りが重要だ。
◆運命式から観ると、茂木友三郎さんは人の意見をしっかりと聞きながらそれらを自分の中でよく咀嚼しながら、知恵で勝負をする人だ。性格の良さは皆から愛されることを表している。現在キッコーマンの会長でありながら幅広く活躍していることがそれを物語っている。
社会的な性格は決して自分がひっぱていくりーダートいうよりは、よく物事を考えて周囲の共感を得る努力をしながら、仕事運から問題は知恵で乗り切ろうとするタイプであることが分かる。それらは、社会的な性格と人気運のバランスが優れていることから、摩擦を解決する力があることを物語っている。
特徴は茂木友三郎氏さんの流運を観てみることだ。自分の仕事から逃げないでしっかりとこなしてきた実績があるからこそ、30才を過ぎたころから大きな転機が訪れている。(ということは逃げたくなるようなこともあったはずだ)
71年(36才頃)に米国工場の建設提案が受け入れられたのだ。こうして、73年には米国工場での操業が始まる。この頃の運勢というのは、それまでの辛抱の時から、自分が一番強気になれるときに入っている。そして、その強気を支えいる外交的な運勢も味方をしている。
だからこそ、石油ショックなどの環境的な試練も、この運勢期にある攻めの精神を忘れなかったからこそ、業績を好転させることができたのだ。
45才頃からは運勢期が再び苦労をともなう安定期に入ってくる。この時にも、自分の持つ知恵と人脈、この頃の運勢期にある戦略をしっかりと立てることから、道を少しずつ開いてきた。そして60才の社長就任は、運勢的にも大きな転機を迎えたと言えよう!
この時期より再び、流運は知恵による戦いの時に入った。だから、社長就任から新商品の本格進出が可能になってきたのだ。
こういう茂木友三郎さんの運勢の流れを観てみると、自分のキャリアに素直に従い、自分をうまく生かすことが自然にできていることが分かる。だから自分の運勢にうまくのっているのだと言える。それがこの方の強みなのだ。
決して派手な運命式ではない。しかし、自分をうまく運命式の波に載せることができている。そういう意味では、一つのいいリーダー像と言える。
素直に自分や周囲を見つめそれをしっかりと分析して考えられる頭の良さが、茂木友三郎さんをリーダーに仕上げたのかも知れない。
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