■後藤新平
後藤 新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家である。位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。
台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長を歴任した。
計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名された、日本の植民地経営者であり、都市計画家である。台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し、日本の大陸進出を支え、鉄道院総裁として国内の鉄道を整備した。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の帝都復興計画を立案した。
wikipediaより
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今日のニュースは、インターネット上で掲載されるニュースの中から、そのニュースを占い的に分析をするものです。ですから、事件や出来事の内容や様々ないきさつに言及するものではなく、純粋に運命式からそういうような事件や出来事に関わるような可能性について簡単に説明するものです。即興的な文章ですから、その辺を加味してお読みくださればありがたく思います。
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■関東大震災後、帝都復興計画を立案した後藤新平
2年前の3月11日、東日本大震災が発生した。全く日本民族にとっては未曾有の大災害であった。福島では人類が経験したことのない大量の放射線被曝という事態まで起こってしまっている。
同じように、今から90年前に起きた関東大震災で東京は一面焼け野が原になった。その東京を甦らせて、現在の大東京の基礎を作ったのが後藤新平であった。
<wikipediaより抜粋>
関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、13億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約1年分)のため財界等からの猛反対に遭い、結局議会が承認した予算は5億7500万円に過ぎず、当初計画を縮小せざるを得なくなった。それでも、後述するように、現在の東京の都市骨格、公園や公共施設の整備の骨格は、今なおこの復興計画に負うところが大きい。
道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小されながらも実際に建設された。南北軸としての昭和通り、東西軸としての靖国通り(当初の名称は「大正通り」)、環状線の基本となる明治通り(環状5号線)など、一定の街路は、曲がりなりにも実際に建設が行われている。当初の案では、主要街路の幅員は広い歩道を含め70mから90m、中央または車・歩間に緑地帯を持つという大規模なもので、自動車が普及する以前の時代ではその意義が理解されにくかった。
★こんな大風呂敷を実行に移した後藤新平という人はどんな人だったのか?明治期というのは、怪物を排出する土壌があったのかもしれない。
<後藤新平の運命式>
32 27 40
14 45 31
27 18 36
ちょっと長くなったが、後藤新平がどんな人だったかということが、あまり知られていないので、その業績を紹介した。
「大風呂敷」と呼ばれていたらしいが、その行政手腕はたいしたものだったということである。
運命式から見ると、後藤新平という人はそんなに凄いことをした人かということだ。一見どこにでもありそうな運命式であるが、その彼が日本の首都のあり方や国家の形を決めていったのであるから、この運命式は研究に値するということだ。
後藤新平の運命式のどこが凄いのか?
それは、彼が自分の持っている運命式を「一点豪華主義」として、花を咲かせたということだ。
まず、彼の運命式を見てみよう。心霊運は頑固そのもので、人のいうことを素直に聞く人ではない。自分の考えと価値観に忠実な人である。
問題は本性である。彼はまじめな知恵の人ということである。
この知恵をとことん磨いたということが、彼の出世の秘密ということである。もう一つ、脇役も揃っている。それは、その知恵を鼻にかけてひけらかせるということではなくて、人とのつながりの中で仕事をしていくという仕事運と、人にはあくまで柔らかであるということである。
ここに医者として、行政官としての面目躍如たるところがあるということだ。東北大震災当時に、こんな人物がいれば日本はもっと変わったかもしれないのだ。でも菅直人首相の下では誰もその力を発揮できなかったように思う。それほど、管直人の運命式は周りを振り回しても、決して何かを成し遂げる人物ではない。
●・・・ひとこと・・・
日本の不幸は、阪神大震災の時もそうであったが、東日本大震災の時も野党が政権を握っていたときだ。村山政権と菅政権だ。ということは、長い野党暮らしで政治と行政能力が欠如している中で、大危機が起こってしまったということである。無能な政治家と平和ぼけで卓越した行政官を育ててこなかったということ。ドングリの背比べでは、いい仕事はできない。
「一点豪華主義」で良いから、ちゃんとした人材を育てて欲しいものである。
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