お早うございます。
世の中にはいろいろな人がいると思いました。
先日コーヒーのセットが送られてきました。その中を見ると、いかにも手作りの焙煎コーヒーの缶が2缶入っていまして、そこには小さな栞に店主のひとことが載っていました。
別に普通ですが「一杯のコーヒーで安らぎの一時を」と書いてあり、すべて手作りと強調してありました。
ついでにホームページも見ました。そこにはいかにも頑固そうで、自分の主張を曲げないぞという意気込みが店主の顔に表れていました。
件の送り主に問い合わせてみたら、彼はコーヒー道に命をかけている男なんだということでした。
コーヒーの小さな豆に命をかける人がいるということに、驚きを持つと同時に、小さな豆の背後に、たくさんの人の顔が浮かんできました。
どんな小さなことも、そこには人の大きな人生がつながっているんだと思わされました。
(遠山)
〜成功脳を考える〜
★見返りの想い
与えることが出発点というのは、真理である。
何が真理かというと、与えるということの効果を多くの人がその価値を証明しているからである。
純粋に与えるということが、結果的に人の心を動かし、人々の心の世界と生活にいい効果をもたらせているからである。
もし、与えるのではなくて、与えられることを願った場合はどうかということである。人の心は感動で動いているといえる。それは理性に勝るのである。
だから、与えられることを願った場合には、それは自ずと相手に「与えよ」と強要することを意味する。
例えば、しあわせになるには?と考えると、そのしあわせを実現するために何をすればいいのかと考えるのが普通だ。そして、自分がそのしあわせを得るための行動をするということになる。もしお金がしあわせならば、そのお金を得るための行動をするということだ。これは発想が外向きだ。
ちょっと視点を変えてみて、しあわせが来るには?と考えると、しあわせが向こうからやって来るような準備をする行動をとるようになる。これは自分がどんな人になればしあわせが来るかということになってくる。そのために自分はどんなことをすればいいのかという発想になる。これは発想が内向きなのである。
外に取りに行ったものはいつか奪われることになる。しかし、自分のうちに蓄積したものは奪われることはないのだ。
見返りを求めて与えるというのは、それは与えるということではない。
本当の社会というのは、与えることを考えている人の相互作用で成り立つ社会と考えていい。その理想形態はやっぱり家庭で実現すべきかなと思う。 |