遠山球希のターニングポイントはここ
遠山快空(宣丞)のターニングポイントはここ
■私(快空)のターニングポイント
◆第1のターニングポイント
中学校時代にさかのぼる。部活には何となく「ラジオクラブ」を選んだ。同時に陸上部にも入っていた。ハードルや200メートルの選手として市の大会などに出たのだが、怪我をしていつの間にかやめてしまった。
ラジオクラブの担当は・・先生だ。この先生はなかなかの熱血漢で、当時のグランドの隅にあった小さな技術実習の建物の中で、三球ラジオの製作を指導してくれていた。その先生は当時まだ珍しかったアマチュア無線を趣味としていた。だから、中学校にもできればアマチュア無線クラブを作りたいと思っていたのだろう!もしできれば、その当時は全国でも数校しかなかったから、それは快挙である。
問題があった。それは、電話級アマチュア無線技師という国家資格を最低でも4人とっていないと無線クラブとして立ち上げることが出来ないのだ。
ところが、ラジオクラブの1年生から2年生になるのはたった4人しかいないのだ。そこでこの4人が先生の熱意にほだされて?何と国家資格を受験するハメになってしまった。(今でこそ認定講習会があるが、当時は国家資格の受験しか道はなかった)
そこで問題がある。4人のうち3人は学校でも常にトップクラスで頭のできが違うのである。僕はというと、彼らには及ばない頭の持ち主で、先生が一番心配したのは僕であったと思う。何しろ、4人とも受からなければ無線クラブは絵に描いた餅になるからである。
それまでに、あまり勉強しなかった僕も、難しい国家試験の例題集を買ってきては結構勉強をした。何しろ僕のせいで無線クラブの夢がボツになるのは、ちょっとかっこ悪かったからだ。
試験当日は、学校を休んで受験会場に出かけた。それも大都会の名古屋へ生まれてはじめていくのですから、ビックリものであった。後から聞いたのだが、・・先生が校長に掛け合ってくれて学校は出席扱いにしてくれたということだ。
奇跡は起きました。4人とも全員が合格したのです。当時中学生で電話級アマチュア無線技師の試験に合格するというのは、ほとんどいませんでしたから、合格証を朝の集会で全校生徒の前でもらったのを覚えています。それくらい、当時としては価値があったのでしょう!
クラブ開設にあたっては無線機(送信機と受信機)も夏休み返上で自分たちで作成しました。
一番最初の交信はしどろもどろであったことを覚えています。Hello,CQ CQ CQ・・This is JA○Y○○・・・
全くマイクを持って話すときの冷や汗というのはこの時が初体験でした。
それから、しばらくはいろいろな人との交信を遊んで、QSLカードの交換などをしていました。
そのうちに、進路をどうするかということもちょっと頭の中にありました。そんな時に町の小さな本屋さんで手に取った本が、僕の進路に影響を与えました。
その本の名前が北杜夫の「ドクトルマンボー航海記」です。これを読んで、仕事をしながら世界を見聞できる道があるということが分かったのです。
それで、ドクトルマンボーはお医者さんでしたが、船の通信士というのは港に着いたら暇になるということがわかったのです。しめた、これで世界を見て回り結構遊べるぞと思ったものです。それで通信士の資格をとる学校に行くことに決めたのです。
★第2のターニングポイント
そこでの5年間は楽しいの一言です。とんとん拍子に第2級無線通信士の資格を取得しましたし、第1級無線通信士はあと3科目で免許がもらえました。第1級の資格をとってから望みであった外航船に乗ろうと考えていたのですが、その間しばらくアルバイトを社会勉強のつもりですることになりました。やったことのないセールスを始めたのです。
何事も社会勉強と割り切っていましたから、何でもやりました。最初は大きなお米屋さんで、工場や病院周りのお米の受注セールス、それから雑貨の受注など何でもやりました。面白いようにお金が儲かっていきました。これなら、自分でも何かできるかも知れないと、独立することを考え始めたのです。もう船のことはどこかへ飛んでいました。
一番最初に作った会社が資本金50万の三幸商事、学生をバイトに雇っての雑貨の販売が手始めであった。これも何とか軌道に乗って形になっていった。それからも、仕事の形態や社名を変更しながら少しづつ事業の拡大をしていった。
最終的にたどり着いた事業の形態は、展示販売の方式だ。会社の資本金は4千5百万にふくれあがっていた。利益率のいい宝飾美術品関係が主な商材である。時はちょうどバブル期にさしかかっていた。
ここでも、独特の方式を編み出した。先ずは小さなパーティで顧客をつかまえて教育をしていく。この小パーティでは販売はしない。つぎに本展で大きく販売するのだ。しかし、ここで終わりではないのだ。この本展の後が勝負なのだ。本展の後にもう一度小パーティを開いて、顧客の再教育をはかるのだ。ここでは、心理学的な手法を取り入れて、グループカウンセリング的な教育法を採用した。当時こういう販売方式をとっていたところはたぶんないだろうと思っている。
本展でも工夫をした。重要な顧客にはバンケット方式で接待をして、そこにイベントとして占いを採用した。神秘性と個人を結びつけて唯一感を強調したのだ。この占いもいい加減ではいけないので、最初はプロの占い師を採用したのだが、営業形態にあった占いにするために自分で研究した。
実はこれにはまってしまったというのが真相だ。占いを研究していくうちに、実はこのバブル経済という運勢が、いずれ終焉をつげてその後日本経済は手ひどい目に遭うという予想を抱くようになった。それが日ごと確信に近い形で僕を悩ますようになった。
何故かというと、やっている仕事の内容はバブルでしか成り立たない営業形態だからだ。どうやってつぎの事業転換を図るか?このまま行けばいずれ大きな損失を被って立ち直れなくなるに違いないと信じ始めていた。それでついに決断をした。一度会社は解散をすることにしたのだ。そして、事業を継続してやりたいものには、その道を選択するようにした。僕は、とにかくこの一線からは退く決意であった。
これが僕の第2のターニングポイントでした。
★第3のターニングポイント
後からこの決断は正しかったことが証明された。本当にバブルが崩壊したのだ。虚飾に彩られた商品はことごとく市場から姿を消すハメになった。あのままいってれば立ち直れないくらいの借金で、今ごろはどうなっていたかわからないのだ。占いの成果をここで改めて思い知らされた。そこでこの占いの手法をもっと世の中のために役立てることはできないだろうかと、寝ても覚めてもそのことで頭がいっぱいになってしまったのだ。
日本国の運勢については、下記を参考にしていただければ少しは分かるかも知れない。
http://www.yo-in.com/mail_magazine/070105.html#2007
占いが高じて仏教書から聖書から様々なものを研究して読みあさった。そういう中で、一番ひかれたの空海の陽と陰の思想である。人というのは何かに集中しているときというのは、世の中は出来事は見えなくて気にならないものなのだ。その時は、夢かうつつの世界に生きていたように思う。いつも不思議な夢を見るようになった。そして、夢の中で禅問答のようなことが行われている。そして誰かにいつも問い詰められているのだ。それが誰なのかはわからない。
あるとき夢の中で大きな声の主に追われて、山野を逃げまどい、渓谷の吊り橋を渡り、海辺まで逃げてきたときだ。それは、ある数式を解かないとお前を殺すという恐ろしいものだったのだ。そこで、思いあまって声の主に叫んだ。お前は誰だ!声の主は大音声で答えた。・・・「コンハイ」・・・。そこで、夢は突然に終わってしまった。
人間の閃きなんていうのは、どこでやって来るのか全く検討つかないものだ。あるとき風呂に入っていた。そしていつもの癖で、露滴でくもった風呂の壁面に○を書いていた。三つほど何気なく書いた○を見て頭の中に閃光が走ったように、まるで長いトンネルを抜け出して突然に光が飛び込んでくるように頭の中が鮮明になったのである。全てがわかったような気がしたのだ。この段階ではまだ気だけなのだから、それが理論的にどうなっていくのかを説明しなければならないという作業が残っていた。
ただ夢の中の声の主が誰なのかは疑問に残ったままであった。
新しい占いの開発を目指して研究が続いたが、ある時に何気なくビデオショップにふと立ち寄る気になった。そのビデオショップで目にとまったのが、北大路欣也主演の「空海」であった。早速そのビデオを借りてきて見ていると、さすがに圧巻であり引き込まれてしまったが、さらに驚いてしまったのはそのビデオの中で空海が中国語で自分の名前を「コンハイ」とつげていたことだ。あまりの驚きに、何度も何度も巻き戻して繰り返して同じところを見た。
自分が夢の中で出会ったあの声の主と同じ呼び方ではないか!自分を追い詰めて何かを悟らせようとしていたあの夢は、実はあの世から空海が現れて自分に何かを伝えようとしていたのではないかと考えさせられてしまった。
だから、占いの新しい考え方は断片的につづられた夢の中での記録をたどりながら構成された。自分で考え出したというよりは、夢の誰かに書かされてできあがったといった方がいい。今では、その夢の主は空海であると僕は思っている。
それからは精神的には充実していたが、いつまでも過去の遺産で生活できるわけではない。自分の今後の使命はこの新しい占いをして少しでも世の中の役に立つようにすることだと固く信じていたから、昔のように何かの事業をしてなどとは考えなかった。40をすぎてからこんな世捨て人のような生活を始めたのだから、まあ普通ではないといえばそうだろう!ここら辺が一番辛い時期ではなかったろうか!
こうして、その頃まだ占いといえば面談の鑑定がほとんどという中で、「電話で運勢鑑定します」という電話広告を1ヶ月3000円という小さな広告を出した。新しい占いの名前は「陽陰姓名術」と命名した。全ての人たちに受け入れられるという意味を込めてある。相手が全く見えない中で、電話だけで鑑定するというのはよほど自信がないとできない占いだ。今でこそ電話鑑定が増えてはきたが、その当時としては画期的であったのだ。
それと平行してインターネットも始めた。はじめてホームページというものをつくったのだ。団塊の世代の後の僕らはコンピュータとは一番縁がない世代であった。何が何だかわからない中に試行錯誤して、宮本デザインというデザイン会社にホームページの作成を依頼した。そうして出発したのが今のホームページなのだが、最初の1年間は誰も尋ねてこなかった。依頼もゼロなのだ。これではどうにもならない。自分の志向を実現できないとあせる思いでホームページも勉強した。そうして手探りでできあがったのが今の命名・改名を中心とした「天使の占い」のサイトなのである。
この「天使の占い」サイトを立ち上げたのが、大きな影響を与えた。今まで小さな限られた地域だけであったのが全国へと波及したのだ。そこがとても驚きであった。こうして、占いというマイナーですが確実に人々の心にメッセージを送ることができるようになったのである。
これが第3のターニングポイントとなった。
★コーチングへの道
「天使の占い」サイトで僕の研究が終わったわけではない。漢字語圏から、アルファベット圏まで、占いの世界化を目指している。しかし、もっと重要な要素が見えてきた。それは、たぶん全世界に通用するかも知れない基本原則がありそうだということなのだ。それが、family Tree である。いわゆる家系的系統図である。ここには、人間の歩んできた家系史が凝縮されている。
「天使の占い」サイトでの様々な鑑定例から5万件以上のデータを分析してみると、その家族親子関係に大きな共通点があることに気がついた。そこから、研究に研究を重ね、ついに基本的な法則性を発見した。そして2000年には、家系史の研究を資料として本にまとめた。
問題は、こういうジェノグラム(家族系統図)的な発想から、どうやって様々な課題解決のプロセスを見いだすかということにあった。
ここで大きな壁にぶつかってしまったのである。「系統図的に分析すればそういうこともあるよね」で終わってしまう。それでは、問題の本質にまで踏み込んで解決の行動に移すことができないのである。原因がいくらわかってもそれを行動に移す強い動機と、自分がそれに気がつかなければ何も前には進まないのだ。そこが最大のネックになった。
この家族系統図(family Tree)プログラムからは問題解決の原因はわかるのだが、解決への行動力をどうやって促すかが一番のポイントなのだ。カウンセリングも研究してみた。しかしカウンセリングでは、悩みの相談には乗ってあげられても、勇気づけなどはできるかも知れないが、ゴールという問題は霧のようで見えてこなかった。コンサルティングといってもビジネス手法ではないから心理的な問題にまで責任を持つことはできない。様々な心理学的な手法も資料を取り寄せてみたが、どれもピンとは来なかった。
そんな時にコーチングという言葉を耳にした。それまでコーチングということがどんなことかも全く知らなかった。
この情報が白紙であったことがさいわいした。イメージとしてはスポーツのコーチぐらいしか思い浮かんでこなかったから、「たいしたことないや!」と軽い考えでいた。そこでとりあえず出張の途中に駅の売店でコーチングの本が目にとまったので、それを買って車内で読んだのだ。
それを読み進めていくうちに、現代の日本の家庭崩壊を防いで、離婚率50%というようなアメリカのようにならないためには、家族系統図(family Tree)による原因解明と、コーチングによる行動サポートが一番良いという結論を持つようになった。特に家庭崩壊はビジネスに大きな影響を与える。家庭が安定していてこそ、ビジネスに力が入るのは当然だ。また、経営者の家庭がしっかりしていないと、企業は長く存続することが難しくなる。いずれにしても家庭は企業の根幹に関わる問題なのだ。
そこで、様々なコーチングのコーチの資格を研究してみたが、石川県の田舎に住んでいる僕としては、東京までも出かけて研修を受けるとか、資格をとるのに莫大な費用がかかるとかは、なかなか手が出せないでいた。何故ならほとんどがボランティア的な精神で行っているので、大きな利益は出せないからだ。できれば地元でないものかと思っていたときに、インターネットで探していて見つけたのが「銀座コーチングスクール」である。
そこに富山校の開講スケジュールが出ていた。土日ごとの通いの勉強ということなので、僕らでも取り組むことができると思ったのだ。それに、とにかくコーチングがどんなものなのかということを知ってみないことには、それが本当に必要なものなのかどうかはわからなかったからだ。すぐに申し込んだ。定員が10名だから受け付けてくれるかどうか心配だったが、どうにか受理された。そこからコーチングとの格闘が始まった。全てが初めての体験であった。
先ずしゃべるなというのだ。今までしゃべってきた僕がしゃべるな!クライアントの話を聞きなさい。クライアントから話を聞き出しなさい。などと言われるともう頭が混乱してしまい、自分で自分がわからなくなるところまでいってしまった。そんな状況の中から、訓練というのは恐ろしいもので、少しづつコーチングのスキルを身につけていくと、コーチングこそ相手も生かし、自分も活かすことできる素晴らしいコミュニケーションスキルであることがわかってきたのだ。
「一家に一人コーチを!」もしそれが実現できれば、家庭の平和はすぐにでも実現できそうな気がするのだ。
それほどコーチングというのはサポートに徹した人格的なコミュニケーションを可能にするのだ。
◆持病がコーチングへ向かわしてくれた
もう一つコーチングへの道を後押ししてくれたものがある。それは自分の持病である。アメリカで仕事をしていたころ、過労と食生活のバランスが崩れたのか発作性の頻脈で2回も救急車で運ばれたのだ。ボストン近郊の小さな田舎町ウースターというところに仕事でいたときのことである。一人でダウンタウンをぶらついた後、車まで帰る途中のことである。突然に心臓の鼓動が早くなり出したのである。そして不整脈が起こった。頻脈による心臓の空うちである。当然血液がまわらなくなるから全身に悪寒が走るようになる。その場に倒れ込んでしまった。その時は運良く、ショッピングにきていた家族連れがアンバランスカーを呼んでくれた。もちろんパトカーも駆けつけた。麻薬中毒患者かも知れないからだ。こういう病気は不思議なもので、病院に着いてしばらくすると正常に近い状況に戻ってしまった。しばらく入院検査したが原因はわからずじまいに終わった。
日本に帰ってきてからも、榊原記念病院やら専門の病院に行ってみたが何となくわからず有耶無耶に終わってしまった。30代にアメリカで頑張っていた時の出来事だから、それから20年ほどたった。その間は気にしながらも何事もなく生活できていた。それがここ3年ほどの間にまた持病が頭を持ち上げてきたのだ。救急車に乗ることこの3年の間に3回、それに不整脈が頻繁に起こり、心臓の状況が安定しない。ちょっとした刺激で発作が起こるようになってきた。車の運転中にも発作が起こった。これではどうしようもないと自分ながらに覚悟を決めるしかないと考えるようになった。
それで自分が何か世の中にお役に立てることはないかと考えたときに、コーチングは少しでも自分の経験や考えてきたこと、学んできたことが人のお役に立てるかも知れないと考えたからである。それに、激しい運動はできないからコーチングという活動はそんなハンディーのある自分でもできるということなのだ。
この際持病に感謝しなければとも思ったりするのである。
遠山球希のターニングポイントはここ
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