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<愛情と信じることの関係は、心と体の関係と同じ> |
人間は不思議なんですねえ!愛されると信じちゃうんですからね!しかも、これが無条件にです。よく、子供が悪い子として警察に補導されるでしょう!(テレビドラマでよくやっている)親のフレーズは決まっているんですよ。「うちの子に限ってそんなことはやっていない」デモね、そういう子が現実の目の前では、警察官の前に首をうなだれている。親はその現実を一生懸命否定しようとしているんです。そして、子供に「・・ちゃん!やってないわよね!やってないと言ってよ!」逆のパターンもあって、子供が何かいいことやって表彰状なんかもらっちゃうと、「うちの子が?うっそー、信じられない?」と変な喜び方をするのです。こういうのってちょっと変だと思いませんか?
現代社会で、愛情という人間の心の部分が崩れていってしまうことで、信じるという体の部分までおかしくなってしまっているのです。しかし、逆もまた真なりで、信じるという体の部分を直すことによって、心の愛情の部分を変えることができるかもしれません。
信じられる心を育てる1!
@愛情が"信じられる心"を育てる。
A信じられる心の中心は"希望"である。
B希望を伝達する手段は言葉である。従って人は言葉を信じるところから出発するのである。
C言葉はイメージであるから、その言葉によってどういうイメージを持つか、またはどういうイメージを与えるかが問題なのである。
Dそうすると、言葉の発信者の人がどういうイメージを持って、その言葉を発するかと言うことこそ問われなければならない。どんなイメージを持つかそれこそ問題である。
<親に真の優しさがなかったとき、そのとき子供は何を感じるのか!>
人間も生物ですから、動物がそうするように、人間も親からのスキンシップがないと不安から解放されることがありません。動物の場合は死んじゃいます。それほど親とのスキンシップは重要なのです。
ここで問題なのは、動物と違って人間は、スキンシップする親の側にあるのです。親がどういう動機とイメージを持って子供に密着していくかと言うことなのです。
"演じる母親"これは、けなげにも一生懸命母親らしくなろうと努力しているのだけれども、子供に良いお母さん像を押しつけている人がいるのである。こういう母親は、自分の欲求不満を子供に押しつけているか、親の方が子供に何かを求めて密着していくのである。
信じられる心を育てる2!
こういう親が、だいたい良き母親像を演じながら、過保護になっていくのである。よくあるケースは、子供を第2の夫に仕立てようとするケースである。夫との関係に絶望するか、不満を抱いてあきらめる。その母親の根底には、計り知れない憎しみを宿しているのである。そしてその憎しみを動機としながら、それを解消しようともがき苦しみ、子供に密着していく。
一見優しく見える理想的な母親、しかし、そこには憎しみという動機を持つ優しさがあったのである。こういう育てられ方をした子供はどうなるのであろうか?果たして、長じて親を信頼できるようになるのであろうか?答えは否である。それよりも、優しさを演じる母親によって、夫に求めて得られなかった過大なる要求を押しつけられるのである。
こうして複雑な心を持った子供ができあがるのである。そして、子供は自分自身の心にあえぎながら、それでも気づいているのである。それは、母親の愛情表現が偽りの愛であり、根底にかくされた真の動機は憎しみであることを!
子供は自分自身の不条理と、その心の苦しみから解放される日をじっと待っているのである。そして何かのきっかけがあれば、それが爆発するのである。家庭内暴力、非行、あらゆる少年犯罪の根底にこの憎しみは宿っているのである。たとい気づかなくても、それが原動力になって自分の偽りの関係を解消しようとする心の叫びなのである。
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