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信じられる心を育てる3! |
<どの家庭にも一人くらい変なのがいる>
これは親のエネルギーが誰に注がれたのかによって変わってくるのです。主に犠牲になるのが長男ですけどね!親の負のエネルギーが誰に注がれるかなんですが、それを見て育つ次男などは、逆にその心が打撃を受けないで育つものですから、結構まともになるのです。
ところが長男が、うまく愛情をキャッチできたとしても、次男が問題になるケースがあります。これは愛情が比較されるところから生じる問題なのです。それでは愛情はナゼ比較されるようになったのでしょうか?それは親からの愛情は、生命のエネルギーの元であるということ。それに、愛情の発信源が一人でしかないこと。に由来するのです。
この問題はどのように解決されるべきものなのでしょうか?比較するなと言うこと自体がナンセンスです。それは生命エネルギーの恒常性ということから考えるとおもしろいと思います。
生命は、生命エネルギーの秩序というつながりを通して、森羅万象あまねく普遍のエネルギーを享受しているのです。昆虫や植物など、様々なところにそのエネルギーの普遍性を観察することができます。ということは、人間は愛情の秩序を通して愛情エネルギーの公平なる分配と言うことを学ばねばならないのです。
最初に愛情を受けたものには、こういう責任が伴うのです。これはとっても重大なことなのです。もしこのことを間違うと、愛情がとぎれてしまい、生命体はそのエネルギーを失い、閉塞感から命を失うこともあるのです。それが、様々な事件へと発展するのです。そして(宇宙の秩序が乱れ)、家庭の秩序が乱れ、家庭という宇宙が崩壊していくのです。
信じられる心を育てる4!
それでは"愛"は何故独占欲を伴うのであろうか?そのことを考えてみよう!このことは、お金を考えてみればよくわかる。元々お金というものは何なのか?万物の滞貨ではないか!すなわちこれを所有することによって、どのくらいの万物を所有しているかを表す指標なのであった。万物の滞貨であるお金そのものに価値があるわけではなく、その背後にある万物の所有権に価値があったのである。
それで、世の中にはお金持ちという所有階層が生まれ,その者たちが支配階級を形成していったのである。これは万物を所有しようとする間違った出発を人類がしたためであるが、本来お金は滞貨ではなく、流通貨(勝手な造語)なのである。万物があまねくすべての人に流通するためのものであったに違いないのである。それを勝手に止めてしまった。そのことから、生命の悲劇が始まったのです。お金は流通させなければならないのです。そうしなければ、全体が生きていけないのです。一人の人が生きていけばいいと言うわけではないのです。
これを、愛情に当てはめてみますとよくわかります。もし、親から愛された長男が、その愛を自分だけが独占したらどうなのでしょうか?そして、したの次男や兄弟にその愛情を一切流さないようにしたらどうなのでしょうか?ちょっと極端な例ですが、これは考えてみなければならない重大な問題なのです。一時的に長男は自己満足をするでしょう。しかし、下の者たちは生命の危機に直面するのです。このときどういう行動が起こされるでしょうか?生命を守るために、下の者たちは行動を起こすでしょう!愛情を独占することは宇宙の原則に違反するのですから当然抗議します。しかしそれが通らないと、宇宙の原則に違反した者に罰を要求して、その長男を排除するようになるでしょう。
信じられる心を育てる5!
もう一度申しましょう!独占とは何でしょうか?独占は何故生まれるようになったのでしょうか?それは、計り知れない愛の欠乏からくる嫉妬の感情からなのです。夫から愛されない妻、絶望の中に自分を見いだすことのできない妻、そんな妻が母親になったとき、真の愛を獲得できない嫉妬心は、子供に向けられたのです。子供に愛を注ぐふりをしながら、子供からすべての愛を奪う独占欲の固まりになったのです。
この嫉妬に伴う独占欲というのは、限りない要求となって現れるのです。しかもそれは強力なのです。何が難しいかというと、万物は所有できます。無理をすれば、何でも集められるでしょう。しかし、愛情は独占しようにもその実態は明らかではありません。愛情の発信者であるのは人間です。その人間を所有することができるでしょうか?歴史の中に奴隷制度がありました。人間を者と同じように所有しようとしたのでした。これこそ、監視委人間の嫉妬の結末なのです。しかし、それは失敗に終わりました。人は所有することはできないのです。それでも人を所有したい。これが人間の持つ究極の我欲なのです。
所有できないことがわかると、嫉妬に狂った独占欲の強い人間のとるべき態度は、人を支配しようとするのです。それが、金力、権力などですが、身近の人間性でゆけば、それはすねたり、ひがんだり、だだをこねたり、こういう態度に出ます。なんとしても自分にすべての意識を向けさせ、自分を中心として、その要求を通そうとするのです。それができなければ、"死んでやる"などと脅しにかかる。何とも哀れな姿がそこに出現するようになるのです。
宗教は本来こういった途方もない人間の心を吸収するところに使命があったのですが、今や全くその働きを停止しています。いったい誰が、愛の普遍性を実現してくれるのでしょうか?人間は家庭が出発点ですから、やっぱり家庭から始めるべきですね!
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