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信じられるために6! |
恋人を次から次へと変える人、友達が次から次へと変わる人。こういう人も人を信じられない部類にはいるのです。
こういう人は他人と親密になれないのですが、本人は親密になりたいと願っているのです。しかし、過去の誰かが心の中に住んでいて、それを妨害するのです。それが親密になりたいという本人の阻害要因になるのです。この問題は、その過去の誰かをしっかりと見つめ直し、自分の心の中の誰かを清算しなければならないのです。
また、自意識過剰の人もいます。こういう人は「人によく思われたい」そういう感情が働いているのです。「よく思われたい」この感情が出発点になってあらゆる行動がとられるのですが、かえって人の信頼を得ることができなくなるのです。何故でしょうか?こういう人は、たぶん、親から後ろ指を指されるようなことはするな!と強い警告を受けて育ったのではないかとも思われます。そのほかに原因もあるでしょうが、良い評価を得なければ、愛を得られないという生活が長く続くと、それが生活の基準になってしまい、いつの間にか自分を律する規範になってしまうのです。小さいときから、よい子だね!よい子だね!といって育てることは問題なのです。子供は自己中心なのです。それを認めてもらえず、小さいときから大人の規範である"為に生きる"を押しつけられると、評価を得るためだけの良い子ぶりっ子になるのです。
人の眼、神の眼!
日本人は長いこと人の眼を気にして生きてきました。「人様に迷惑をかけてはいけない」日本人にとって、今でも人の眼が生活の規範なのです。
人の眼を気にすると言うことは、どういうことかというと、これは心理的に相手に依存していると言うことなのです。常に、主体がいて自分はその人の言うことを聞かねばならない。こういう風に自分で自分の自由を束縛してしまってきたのです。
「長いものに巻かれろ」「お上には逆らえない」これらは主体性を喪失した民族性を象徴する者である。ちょうどこどもが、親の領域以外のところで活動しようとしたとき、これを阻止し、自分の期待道理でなければ不機嫌になり、暗に要求をする。こういうことを繰り返されると人間は自己保身に走るようになる。防衛しなければ自分を見失ってしまうからである。そのためには、相手の"眼"の範囲で動いていればいいのだから、という風になってしまう。そしてそれが楽だからと自分に言い聞かせて、結果的には自分で自分の自由を失うことになってしまうのである。
日本人がおとなしい、礼儀正しいというのはこういう歴史的な民族性に起因していることが多いように思う。しかし、人間の人格ではこれは問題なのである。心理的に依存するというのは主体性の喪失だからである。主体性というのは、何かの対象のために生きることを意味する。どこかの國のように自己中心性ではないのである。人は、誰のために生きるか!そのことがわかれば、人の眼の規範から抜け出すことができる。
皆様は、果たして、人の眼を神様にしていないでしょうか?
人の眼を気にすると、変な執着性格になることがある。執着性格とは、失敗にこだわってしまうのである。失敗できない。失敗すれば終わりである。そういう強迫観念から逃れられないのである。人の眼が基準だとこうなってしまう。執着性格の人は、人生の目的とか、使命とかそういう者には関係なく人の眼が基準であるから、結局は人の眼から見た自分の体面!それが大切というわけである。
そう考えると、人の眼を神の眼にしてしまったことによって、私たちはだいぶ損をしていることが多いのである。人の眼を基準にしないで、神の眼を基準にしようではないか?そういうと、こういう社会では村八分にされ、仲間はずれにされてしまうのである。しかし、こういう人が現れないとこの主体性のない民族は引っ張っていくことはできないのである。せめて、一人一人が、神の眼の基準を持って主体性ある生き方をすればどんなにか日本も、日本の家庭も変わるに違いないのでしょうが、神の眼の基準は、評価を人に依存するのではなく、神という歴史の判断にゆだねることなのです。でもねえ!住み慣れた依存体質からは抜け出せそうにはありませんね!
人の眼、神の眼2!
問題なのは、ここに自己中心性という要素が加わったときなのです。そうするとこれは自分が何とかしなければならない。自分が責任を持ってやらねばならない。自分しかいないなどと思いこむことなのです。で、そういう自分の仕事を妨害するやつは許せない。自分に協力するのは当たり前である。それが翻ると、うまくいかなかったのは、自分に協力しなかったあいつのせいだ。だから自分の責任ではないのだから、自分はこの問題をもう一度実現する権利があるなどと主張するのである。こうなると、どうにもならない人間の部類に入って、"いなければよかった"ということになるのである。
皆さんこういう人間がいたら、どうやって愛することができますか?
飽食暖衣一居して教えなくば、禽獣に近し!(近思禄)
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