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親からの解放3! |
I色々な親がいる。暴力的な親、粗暴で粗野な親、自信のない親、恩着せがましい親、要求ばかりの親、愚痴ばかり聞かせる親、実力もないのに権威主義の親、いつもくらい顔をした親、自分に出来ないことを過剰に期待する親、子供にへつらう変な親、無責任な親、酒に逃げる親、たばこを吸いながら、子供にはたばこを吸うなという親、片づけの出来ないくせに子供には片づけよと命令する親、嫉妬深い親、ものだけ与えていればいいと思っている親、いつも金金といっている親、夫婦げんかの絶えない親、夫や妻の悪口ばかり聞かせる親、人の文句や批判ばかりしている親、全部自分で決めて意見を聞いてくれない親、頑固なだけの親、等々・・・。
世の中まともな親を探すのが大変なくらいである。こういう親の心の環境の中で、子供は自分の心を育て、自分自身を自立させなければならないのである。子供の心は戦っているのである。こういう劣悪な心環境の中で、自分をどうするかという生きる為の戦いをしているのである。その中で、身に付いてしまった生きる為の間違った心の作用、感情の持ち方、心の状態の処理の仕方、いつかこれら親の垢をぬぐい去らなければならないのだ。そうしなければ自分の本当の人生の出発はないのである。
どうすれば自分の自立性をもてるようになるか?それが問題だ! Stand by me!
理と情の二つの世界!
心を理解し合う為には、自分からの解放、親からの解放という二つの解放をどうやって実現するかということが大切になる。そのためには、人間について知らなければならない。人間は二つの世界を常に旅をしているのである。二つの世界とは、理の世界と情の世界のことである。
理の世界とは、普遍的な原理の世界である。必ずこうでなければならず、こうなるはずである。という、人間の本来の持つあり方の世界である。
情の世界とは、理の世界に疲れたものが、その心を癒しにやってくる場所である。ですからここは、何でもありの世界なのである。どんな感情の世界も受け入れてしまう器の大きさがある。
理の世界は戦いである。ここには許しがない。そして常に変化を要求される。あくまでも正当性が細かく追求される世界である。しかし、ここにも情の世界はある。ここの情の世界は理の世界を補完するものである。ここで問題がある。もし自分からの解放、親からの解放がなされていないと、この間違った情の世界が理の世界をゆがめてしまうのである。そして脱落する。
情の世界は緩やかである。しかし、ここにも理はある。ここで自分を解放し、親から受けた打撃を解放し、理を暖めた者は再び理の世界へ帰っていく。まるで過去の自分の情の世界はなかったかのようにである。こういう社会システムは必要である。
理の世界、情の世界!
理の世界が社会であるとするならば、情の世界は家庭である。問題はこの家庭が情の世界としてのどういう役割を担っているかということなのである。家庭の構成員は祖父母、夫、妻と子である。ここは果たして解放の場所になるのであろうか?
情の世界である家庭にも理は存在する。果たして、女性は自分の解放を、そして自分の親からの解放をどこですればいいのであろうか?
すべてのポイントは、理の世界では補完すべき情の世界であり、情の世界ではこれを補完すべき理の世界なのである。そして、最重要課題は家庭の中に理を少しずつ取り戻していくことである。家庭の中で自己を解放し、親との関係を解放し、理を取り戻していくならば、そこに新しい理の世界への出発があるのである。
家庭の主人は女性であるから、女性が先ず理を取り戻さないと、家庭の解放が出来ないことになる。問題は家庭の中でどうやって理を取り戻し、自己を解放するかということなのである。このことを考えねばならないのである。ここが一番難しいのである。そして、ここで取り上げる理とは具体的に何か?それは、相対的関係の法則である。
為に生きるという錯覚!
相手の為に生きるなどというと、すごくかっこいいのであるが、これこそまやかし以外の何者でもない。実際相手の為に生きるなどと称していて、まともなやつはいないのが現実である。ちょっと周りを見回して欲しい。どうにも偽善ぽい顔をしていませんか?
大概巷で、為に生きるなんてやつは、依存心の裏返しが多いのである。一生懸命人の為に尽くす。夫の為に尽くす。聞こえはいいが、こういうのはうまくいった試しがないのである。為に生きて、相手の反響を気にし、そのことで相手に何かを期待し、相手を自分の方に向けさせ、自発的な自由を拘束するのである。こういう人間とつきあうと自由を奪われるからやめた方がいい。
じゃあ!解放される為にはどうすればいいのか? という問題が残っているのである。答えは簡単である。男性は理を中心として情の為に生き、女性は情を中心として理の為に生きるのである。
こうすることで、人に惑わされることなく、人に影響されることなく、すなわち男性にとっては情の世界が目的になり、女性にとっては理の世界が目的になり、本当の意味で"為に生きる"ことが出来るようになるのである。 |