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●同級生3人で「うんこ漢字ドリル」というベストセラーを生み出した

うんこ漢字ドリル!
227万部の大ベストセラーの教育書である。凄いドリルである。
このドリルを生み出したのは、作家のである映像ディレクターの古屋雄作氏である。出版社は文響社。社長は山本周嗣氏、それに水野敬也氏である。

実はこの3人は山本社長を中心として3人とも東海の卒業生だ。

実はこの「うんこ漢字ドリル」は、3人のチームワークがなければ誕生しなかったベストセラーなのである。

どんなことでもそうだが、チームワークや人間関係など、ビジネスは「縁」で結ばれて成功していることが多い。

ここでは、その3人のチームになるまでのいきさつから、その人間関係やビジネスパートナーとしての関係などを考察して、何かが成し遂げられていくということの人との関わり合いを探ることができればいいなと思う。

◆出会い

3人とも東海の同級生なのだが、先ずは文響社の山本周嗣社長と水野敬也氏が中学から同じクラスということもあり、馬があったと述懐しておられます。
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO21369070R20C17A9000000

「水野とは中3の時に初めて同じクラスになり、高校でもクラスメートでした。非常にウマが合い、授業中も席が近かったことから、先生の話はそっちのけで、よく無駄話をしていました。学校の外でもよく一緒に遊んでいました。

水野はとてもユニークな男で、東京の私立大学卒業後、就職せずにお笑い芸人をしていた時期がありました。2003年に「ウケる技術」という本がベストセラーになりましたが、あれは、芸人をやめた彼と、証券会社のトレーダーだった私と、広告代理店のクリエーターだった別の東海の同級生と3人で会った時に、水野の経験もあって、笑いの教科書をつくろうという話で盛り上がり、実際に3人の共著で出版したものです。」

その水野氏の紹介で「うんこ漢字ドリル」の作者である古屋雄作氏と山本社長が出会いました。

「ドリルの作者である古屋雄作は、東海の同級生です。クラスが別々だったこともあり、互いにほとんど面識はありませんでしたが、社会人になってから、私の長年のビジネスパートナーで、やはり東海の同級生の水野敬也を介して知り合いました。

古屋は本職が映像ディレクター。彼の作品に私が出演するなどして、その後もつきあいが続きました。そのうち彼が「うんこ漢字ドリル」の元になった「うんこ川柳」を私に見せてくれて、それが「うんこ漢字ドリル」の誕生へとつながっていったのです。」

◆3人の運命式から「関係性」を紐解いてみましょう!

<山本周嗣社長の運命式>

★タイプ24-29:人情的な人のつながりの中で、知識や情報を元に知的に気配りするタイプ

21 8 16
16 29 13
24 21 26

<水野敬也氏の運命式>

★タイプ19-30:リーダー的自分を中心として、知識情報を集め、細かく知的に気配りするタイプ

18 15 27
7 30 23
19 15 26

<古屋雄作氏の運命式>

★タイプ24-33:リーダー的自分を中心として、人情的で人を大切にするタイプ

21 14 26
12 33 21
24 19 28

◆運命式から見た山本社長と水野氏の関係性

①心霊数が同じ
「水野とは中3の時に初めて同じクラスになり、高校でもクラスメートでした。非常にウマが合い、授業中も席が近かったことから、先生の話はそっちのけで、よく無駄話をしていました。学校の外でもよく一緒に遊んでいました。」

★タイプから見ると、二人が接近した理由の1つが分かる。
それは山本社長が本性に29を持ち、水野氏は心霊数に19を持つ。
同じように、知的に気配りができるということである。

②仕事数が同じ
「水野はとてもユニークな男で、東京の私立大学卒業後、就職せずにお笑い芸人をしていた時期がありました。2003年に「ウケる技術」という本がベストセラーになりましたが、あれは、芸人をやめた彼と、証券会社のトレーダーだった私と、広告代理店のクリエーターだった別の東海の同級生と3人で会った時に、水野の経験もあって、笑いの教科書をつくろうという話で盛り上がり、実際に3人の共著で出版したものです。」

★仕事数が同じ意味の数字。山本社長が16数、水野氏が27数。
この数字は、どちらも同じような意味を持つので、仕事の進め方では同調することが多いと思う。16数・27数の意味:結果指向で実績にこだわる。

③接着剤的な山本社長
この二人の求心力はやはり山本社長の力が大きいと思う。
水野氏のタイプは、本性30でリーダー型ですが自分に対する指向性が強いのです。それに対して、山本社長は心霊数24で人とつながろうとする指向性が強いのです。ですから、接着剤はやはり山本社長ということになります。

◆運命式から見た山本社長と古屋雄作氏の関係性

①同じく接着剤
山本社長の発言を見てみよう。
「古屋は本職が映像ディレクター。彼の作品に私が出演するなどして、その後もつきあいが続きました。そのうち彼が「うんこ漢字ドリル」の元になった「うんこ川柳」を私に見せてくれて、それが「うんこ漢字ドリル」の誕生へとつながっていったのです。

私から見ると、彼は非常に才能があるのですが、クリエーターという職業は日本ではなかなか認められない傾向があります。こんなに才能があるのだったら何とかしてあげたい。同級生だけに、彼を応援したい気持ちがおそらく他の人より強く、それがいい作品を生む要因の一つになったと思います。」

★タイプから見ると、二人が出会って仕事を共有するようになった理由が分かる。それは、山本社長も古屋氏も心霊数が24で同じなのである。

これは両者とも人情的で人が良く、誰かとつながりたいという想いがいっぱいなのである。
もちろん、タイプの違いは古屋氏の方が自分指向の独自性が強い。

②人に惚れ込んでしまう
二人を結びつける更に強い絆があった。
それは、両者とも人気数が21ということなのである。
これは、人に対してとても情熱的になるという特徴があるのです。
簡単に言えば、これと思う人に対して気持ちが入れ込んでしまうのです。
両者が同じ数字を持っているということであれば、この二人の関係性が強くなって当たり前ということである。

◆物事を成し遂げるまで、困難を乗り越えることができた理由

①結果指向の原動力

「「うんこ漢字ドリル」は完成までに2年以上かかりましたが、その間、実は私が何度か大きなミスをやらかし、そのたびに、最初からやり直したいと古屋にお願いしました。

普通の著者と編集者の間柄なら、著者に間違いなくキレられていたでしょう。古屋にも「普通なら心折れているところだ」と言われました。そこまでしても関係がこじれることなく、すばらしい作品に仕上げることができたのは、東海で6年間、同じ釜の飯を食った信頼関係があったからというのもあると思います。」

★運命式的に見れば、山本社長の仕事数16の結果指向へのこだわりが大きな力になっている。

②古屋氏の想い

古屋氏の述懐
「2015年の初めだったと思いますが、今回のドリルを出版した文響社の山本周嗣社長から「うんこ川柳を書籍化しないか」と声がかかりました。」

「僕は「うんこ川柳の書籍化」という長年の思いを実現するために突っ走ったのですが、あるとき、山本から「古屋、これはちょっと売れないかもしれないな」と、ストップがかかったのです。彼は出版社の社長として、もっと世の中に受け入れられるものを作りたいというビジネス視点があったのだと思います。そして、「うんこ川柳を使って漢字を覚えられるドリルにできないか」と提案されました。

それを受けて、うんこ川柳の例文をコツコツ作っていったのですが、そのうち山本から「古屋、うんこ川柳は一度忘れて、川柳なしでうんこの例文を作ってくれ」という身も蓋もない要望が来たんです(笑)。」

★普通の作家と編集者の関係では難しかった

古屋氏のタイプは24-33:
リーダー的自分を中心として、人情的で人を大切にするタイプ

仕事数は26ですから、考えながら策戦をたてながら仕事を進めていくことになり、本性33で自分中心の指向性が大きいですから、作家の内容に対して簡単に変更されてしまうようであれば、それは受け入れ難いことだと思います。
そこら辺の困難を乗り越えられたのは、同級生としての深いつながり、それから運命式的には、心霊数24と人気数21という両者がマッチングする特別な要素を持っていたということです。

●まとめ

面白いことに、3人の運命式を見ていくときに、リーダー型の運命式を持っている水野氏と古屋氏ですが、リーダー型の強さをでない山本氏が仰木の要になっています。
これは、組織やチームのリーダーというのは必ずしも個人の強さではなく、チームをまとめる接着剤の役が重要ということなのです。そういう意味では真のリーダーは上手く人を接着できる人ではないかと思います。
心霊数や本性に4数を持つ人は、チームとしていい働きをするのではないかと思います。

 

■大阪商人・淀屋 三越の元祖・三井高利

■テーマ
・太平の世で文化や経済の花を咲かせる
  人の運命式は・・!

平和というのは何かというと、「戦争でない状態」が平和であるということだ。それは具体的に武器を持って争わないだけで、常に競争が行われているのは、人類始まって依頼の業のようなものである。
だからこそ、平和が為政者によって出現した後には、その平和の中に多くの可能性を見いだす人々が出てきてもおかしくはない。もちろん平和を創出するには、為政者の思想や理想、政治目的、方向性が真理に根ざしているかどうかということが大きな力を持っていることはいうまでもない。いつの時代でもそうだが平和の主体は民衆が握っているということだ。そこで、どんな人々が江戸という時代にその成業をはたしていったのかを考えてみよう!

◆◆◆江戸創業時の商人達は・・・・!◆◆◆

■淀屋をみると、太平を創業するときにはどんな商人が必要かが分かる

(wikipedia から)
淀屋(よどや)とは、江戸時代の大坂で繁栄を極めた豪商である。全国の米相場の基準となる米市を設立し、大坂が「天下の台所」と呼ばれる商都へ発展する事に大きく寄与した。

米市以外にも様々な事業を手掛け莫大な財産を築くが、その財力が武家社会にも影響する事となった事により、幕府より闕所(財産没収)処分にされた。しかし、闕所処分に先立ち伯耆国久米郡倉吉の地に暖簾分けした店を開き、後の世代に再び元の大坂の地で再興した。幕末になり討幕運動に身を投じ、殆どの財産を自ら朝廷に献上して幕を閉じた。

淀屋を創業した岡本家によるものを前期淀屋、闕所後に牧田家により再興されたものを後期淀屋と呼ぶ。
淀屋が開拓した中之島には、かつて常安町と常安裏町(現在の中之島四丁目~六丁目)が有った。また現代も中之島に掛かる淀屋橋や常安橋にその名を残している。

淀屋の事業は米市を主とした多角的経営であった。

初代の岡本三郎右衛門(おかもとさぶろうえもん)は、伏見城の造営や淀川の堤防改修において工事の采配を振り、高い土木工事技術を発揮した。その後、大坂の十三人町(後の大川町、現在の大阪市中央区北浜四丁目)に移り、淀屋と称し材木商を営んだ。1609年から1614年に掛けて中之島の開拓を行い、江戸時代から現代まで続く経済の拠点を造った。
二代目の淀屋言當(よどやげんとう)は、途絶えていた青物市を元和元年(1616年)に京橋一丁目の淀屋屋敷で再開した。寛永元年(1624年)には「海部堀川」(かいふほりがわ)を開削し、海部堀川の屈折点に造った船着場「永代浜」(現在の靱本町二丁目)に魚の干物を扱う雑喉場(ざこば)市を設立した。

また米価の安定のため米市を設立し、大坂三大市場と呼ばれた青物市、雑喉場市、米市を一手に握った。 また輸入生糸を扱うための糸割符に、大坂商人も加入できるように長崎奉行と掛け合った。

寛永9年(1632年)に、糸割符の加入が認められ海外貿易を始める。 寛永15年(1638年)からは加賀藩主前田利常の意向により加賀米の取扱いが本格化した。その大坂への輸送に際して、日本海から関門海峡と瀬戸内海を経由して大坂に至る西廻り航路を北風家の北風彦太郎と共に担い、北前船の先鞭と成った。

●淀屋常安(よどやじょうあん、つねやす)1560年 - 1622年
岡本与三郎

山城国岡本荘の武家の出身だったが、織田信長に討たれ商人を目指すようになった。苗字を出身地の岡本、通称を三郎右衛門、名を与三郎、のちに善右衛門とした。隠居し仏門に入ってからは常安の号を名乗った。 なお前期淀屋の歴代当主も三郎右衛門を名乗った。

常安請地として中之島の開拓を手掛け、大阪大学医学部跡地の旧町名である常安町、常安橋に名を残している。大坂三郷(北組・南組・天満組)のうち北組の惣年寄を担った。

大坂の役においては徳川方を支持した。 大坂冬の陣では茶臼山と岡山の陣屋を徳川家康と徳川秀忠に提供し、徳川方の兵には食料も提供した。その功績が家康に認められ、褒美として山城国八幡の山林田地300石の土地を与えられ、名字帯刀が許された。 大坂夏の陣が終わった後には戦の後始末を願い出、亡くなった兵の供養と大量の武具を処分した事でも利益を得た。

●二代 淀屋言當
淀屋言當(よどやげんとう、ことまさ)1576年 - 1643年
岡本言當

弟、五郎右衛門の子(三代箇斎)を養子とする。 通称を三郎右衛門、名を言當、号を个庵とした。 なお二代、四代、五代の歴代当主も个庵を名乗ったので、二代を区別し特に玄个庵と呼ぶ。
十三人町の町年寄を務めた。

◆淀屋の運命式の流れからみる草創期の商人

一代から五代までで、徳川初代政権から元禄時代までになっている。この間に淀屋は江戸時代の経済体制の基礎を創りあげている。そこで、この淀屋のような商人はどんな運命式の内容なのかを共通要素から見てみよう!

★(1代)岡本与三郎の運命式

タイプ23-28:リーダー的自分を中心として、策戦思考するタイプ

25 13 19

20 28 11

23 15 20

★(2代)岡本言當の運命式

タイプ28-33:リーダー的自分を中心として、戦略的に思考して活動するタイプ

26 13 20

21 33 12

28 20 25

★(3代)岡本箇斎の運命式

タイプ33-38:リーダー的自分を中心として、策戦思考するタイプ

24 13 27

19 38 19

33 25 30

★(4代)岡本重當の運命式

タイプ30-35:リーダー的自分を中心として、策戦思考するタイプ

26 13 22

21 35 14

30 22 27

★(5代)岡本廣當の運命式

イプ36-41:パートナー型で目的指向を中心として、情報を集めて細かく知的に気配りするタイプ

26 13 28

21 41 20

36 28 33

1代から5代までの流れを見てみると、江戸草創期から経済体制ができあがるまでの特徴が分かる。
それは、この淀屋の特徴は「政商」であるということなのだ。
運命式全体に流れる特徴が「政商」であることを物語っている。
それぞれのタイプを見ればわかる。強烈な自己顕示欲と主体性、自己中心性、それに戦略性、策戦性、思慮深さ、が基本となっていて、そこに様々な運勢が絡み合っている。

このことは、権力と結びついて、その力によって様々な術策を用いることで商業を成り立たせるというのが、この運命式から見えてくる淀屋の基本的な内容だ。
そして仕事数の変遷が実に見事だ。

それは、初代は智恵→二代目はアイデア→三代目は実績→四代目は苦難→五代目は思索 というように流れてくる。

この流れは繁栄に繁栄を重ねてきているような淀屋の本当の運勢の流れを表している。人々が見る繁栄の影で、本当の姿が隠されていただけなのだ。それは権力を相手に仕事をするものたちの危うさがいつもあるということだ。

★淀屋はまさに権力を利用しながら、その権力に対抗するだけの運命式の強さを持ち合わせているときは発展してきたが、その運命式に弱点が現れ始めたときにそれをカバーするだけの準備を怠ってしまった結果が、「滅び」という結果が出てしまったということになる。

確かに淀屋は時代の要請に答える形で出現してきたが、その時代を形成したときに「政商」のままで次なる転換を図れなかったところで終わってしまったということになる。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

■平和でこそ成り立つ商業の創業
  三井高利 (wikipedia から)

◆家系
豪商三井の歴史は六角氏の旧臣と言われている三井高安の長男・高俊が元和のはじめころ武士をすて伊勢国松坂で質屋と造り酒屋を開業したところから始まる。なお三井家の姓は藤原を称する。

◆生涯
高利は伊勢国松坂(現 三重県松阪市)で高俊の四男として生まれた。江戸で釘抜三井家を創業した長兄の三井高次(三郎左衛門)に丁稚奉公し、番頭となる。のちその商才を恐れた兄達に放逐され、松坂で金融業を営む。

1673年、江戸本町一丁目に呉服店を開業し、屋号を越後屋(のちの三越)とする。現金掛値無し、反物の切り売りなどの新商法導入して繁盛する。当時、代金は後日の掛け(ツケ)払い、売買単位は1反単位が当たり前であった呉服業界においては斬新であり、顧客に現金支払いを要求する一方で良質な商品を必要な分だけ安価で販売した(ツケの踏み倒しの危険性がないためにそのリスク分を価格に上乗せする必要性がなかった)ために、顧客にとっても便利な仕組みであったのである。高利は後に京都に移り住んで仲買の仕事を専門に扱い、江戸の店を長男高平らに任せるようになった。

だが、この繁栄ぶりに嫉妬した同業者からは迫害され、組合からの追放や引き抜き、不買運動などを行われる。だが、側用人牧野成貞の推薦によって幕府御用達の商人となってからはこうした動きも影を潜めた。後に両替商も開業する。73歳で死去。

◆一人の才能が財をなし、それを相続し発展させる・三井家の例

★三井高利の運命式

タイプ20-24:様々な自然、人間の環境的影響の中で、人の和と人の輪を作るタイプ

24  7 27

10 24 14

20 17 21

<三井高利の流運>

17 18 19 22 11 12 10 13

11 14 15 16 14 17 15 16

この江戸期の文化や平和が庶民の間に定着し始めたときに、三井高利の商いの方法は抜群の才覚を持って実行されたものだ。
政権が安定する草創期では、権力と上手く付き合いその力を利用するものたちが利益を上げていくということになるのだが、平和が定着するようになれば、それはまったく違った方法をとらなくてはならなくなる。

運命式を見ると、この三井高利はとても面白い人といえる。それは時代にマッチングした人ということである。
何故かというと、この運命式は実はとても大きな弱点を持っているのである。心霊数が20ということである。

ところがこの弱点が利点、長所に変わってしまっているのである。
それは、多くの人がこのことで悩むことが多いのに、この時の三井高利にとってはそれがプラスに転じたということだ。

三井高利はこの民衆の気分というものを敏感にキャッチできる力を持っていたということだ。様々な人のしがらみや環境の力に、普通はその大きな力に自分が負けてしまうのだが、三井高利は違っていたということだ。

三井家というのは運命式的に見ればとても面白いといえる。それは代々仕事数がどんな人も成就数を持っているということなのである。そこに仕事数のバランスが組み合わさることになるのである。

そういう運命式の中にあって、三井高利には大きな特徴がある。
それは、本性24の人を組織することが上手いということなのである。人を使うというのはとても大変なことなのであるが、彼はそういう人の組み合わせができる人なのである。そして人の輪をつくってしまうという人気運の持ち主でもあるわけだ。
だからこそ心霊数の20で民衆の気分を吸い上げて、それを本性24で人をまとめ上げて商売にまで引き上げてしまったといえる。

もう一つ大切なことがある。
それは、金を儲けるということでは、彼は明るさを好んだのではないかということである。大きな包容力で人々が喜んで商品を購入してもらえるということを、収入に結びつけたということだ。そういう運勢を持っているということだ。

そして、お金の投資も自分のためというよりは、多くの人に利益があるようなことを考えた。そのことが結果的に自分の利益となって帰ってくるということである。
もちろん、順風ということよりは、三井高利の流運をみる限り相当苦労したであろうということは推測できる。でも後半からはアイデアと人の輪が彼を支えて商売の発展の基礎をつくっていったものと思われる。

★この三井高利の築いたベースを発展させていくことが次の代に課せられた使命となってくる。どんなことでもそのベース作りが重要なのである。その時代の機運に乗るか乗らないかということこそ、それこそ運ということになる。
彼の場合は、自分の弱点を利点に変えてしまうという時との巡り合わせがあった。

面白いことにこのようにして築かれた商業の基盤は、時代を経るに従い政権も変容を遂げるようになる。時が明治維新を迎えるようになる。
この頃になると、この時代に合わせたように三井家の当主に政商のような運命式を持った当主が誕生するのである。

三井高福がその人である。

<三井高福の運命式>

タイプ26-30:リーダー的自分を中心として、戦略的に思考して活動するタイプ

20  7 17

16 30 14

26 23 27

面白いことに、政商として江戸初期に権力と結びついて巨富を築いた淀屋の岡本箇斎を始めとした岡本家の運命式とよく似ているのだ。
★岡本箇斎

<岡本箇斎の運命式>

タイプ33-38:リーダー的自分を中心として、策戦思考するタイプ

24 13 27

19 38 19

33 25 30

この運命式は権力と結びついて戦略や謀略で事業基盤を創っていくということに適した運命式なのである。このように、時代の変革期にはそれに適した人物が現れるようになり、それが連綿と受け継がれていくということに家訓や家憲といった伝統の凄さがある。

その三井家の家憲を示しておこう。

★家憲
高利は子孫のために家訓を残している。

一、単木は折れやすく、林木は折れ難し。汝等相協戮輯睦(きょうりくしゅうぼく)して家運の鞏固を図れ。
二、各家の営業より生ずる総収入は必ず一定の積み立て金を引去りたる後、はじめてこれを各家に分配すべし。
三、各家の内より一人の年長者を挙げ、老八分としてこれを全体の総理たらしめ、各家主はこの命にしたがうべし。
四、同族は、決して相争う事勿れ。
五、固く奢侈を禁ず。
六、名将の下に弱卒なし、賢者能者を登用するに意を用いよ。下に不平怨嗟の声なからしむる様注意すべし。
七、主は凡て一家の事、上下大小の区別無く、これに通暁する事に心掛けるべし。
八、同族の小児は一定の年限内に於いては、番頭、手代の下に労役せしめ、決して主人たるの待遇をなさしめざるべし。
九、商売は見切り時の大切なるを覚悟すべし。
十、長崎に出でて、夷国と商売取引すべし。

 

セコム社長・前田修司さん(2010年2月22日時点の記事)

●「安心」の形さらに進化
前田修司(まえだ・しゅうじ)さん

1952年鹿児島県生まれ。75年早稲田大学理工学部を卒業。81年日本警備保障(現セコム)に入社。長年、研究・開発部門に携わる。44歳で取締役。常務、副社長の任期中には技術開発本部長を務めた。今年1月から現職。

 今年1月、創業以来初めて、技術畑出身者として社長に就任した。子どもや高齢者の居場所を端末から特定できるセキュリティー・サービス「ココセコム」など、同社の根幹となる商品やシステムを先頭に立って開発してきた。「世の中の動きを先取りし、顧客に信頼される商品、システムをいち早く送り出すことが使命」と語る。

携帯の基地局を活用
  安全・安心のために、どこよりも早く、お客様に信頼される商品・サービスを提供することが大事です。常に社会動向、技術動向、犯罪動向を把握しながら、セコムしかできないことに挑戦していく強い意志こそ、我々の基本姿勢です。

 これまで、企業や家庭といった屋内のセキュリティー・システムに取り組んできました。1990年代後半から自動車やバイクの盗難、登下校時の子どもの誘拐、高齢者の徘徊など社会問題が続発する中で、屋外のセキュリティーにも力を入れていく必要があると開発したのが、「ココセコム」です。全地球測位システム(GPS)と携帯電話の基地局の電波を融合して位置を特定し、その位置情報を提供するサービスです。

 屋外の防犯に力を入れるという発想自体は、当社の歴史で初めてでした。相当前から意欲はありましたが、位置を正確に測定できる技術が未熟で着手できませんでした。2000年に、アメリカの半導体メーカーが、GPSと携帯電話の基地局の電波を使って位置を特定する技術を開発しました。さっそく、渡米し、技術提携をしました。

 しかし、日本はアメリカと通信環境が違うため、いくつものハードルを乗り越える必要がありました。中でも、GPSの電波は、ビルの谷間や地下、ビルの中には届きません。それを補完するために、KDDIの携帯基地局の電波で精度よく測定できるように腐心しました。実験もデータ収集も初めての取り組みです。当社の開発センターのメンバーが総出で北海道から沖縄まで出向き、海沿い、山間部、ビルの林立地帯など全国の様々なシチュエーションの膨大なデータを収集しました。さらに独自のノウハウも加え、当社のサーバーで位置を計算できるようになりました。

 2001年4月に「ココセコム」が発売され、その数日後でした。「端末を持って徘徊していたおばあちゃんが、無事見つかった」との報告がありました。

商品が貢献し、ご家族に喜んでいただけたことに、「開発の苦労が報われた」と全員で感激を分かち合いました。

KDDIと共同開発
  その後、「ココセコム」はさらに進化しました。KDDIと開発した子ども向け防犯ツール「mamorino(マモリーノ)」は、あらかじめ登録した家族らとしか通話やメールができない機能があり、防犯ブザーを鳴らすと自動的にセコムに居場所を通報します。いざという時には、保護者と相談の上、緊急対処員が現場に急行します。今問題になっているネットへの接続ができないのも特徴です。子どもに必要なものだけを考えた新しい「安心」の形で、3月上旬から発売されます。世の中の状況と、これまでセキュリティーで培ったものを商品に反映させていくことが、システムづくりの基本です。(続く)

<メモ>セコム
  1962年創業。「社会システム産業」を目指し、セキュリティーをはじめ、防災、メディカル、保険、地理情報サービスなど幅広い分野で事業を展開している。理念は「信頼される安心を、社会へ」。従業員約1万4000人。本社は東京都渋谷区。

(2010年2月22日 読売新聞)
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■技術畑出身の社長にはあたたかさがあった

「今年1月、創業以来初めて、技術畑出身者として社長に就任した。子どもや高齢者の居場所を端末から特定できるセキュリティー・サービス「ココセコム」など、同社の根幹となる商品やシステムを先頭に立って開発してきた。「世の中の動きを先取りし、顧客に信頼される商品、システムをいち早く送り出すことが使命」と語る。」

前田修司社長(57歳)は運命式を見ると、確かに技術畑出身らしい頭の良さ、知恵を持っていることが分かります。
セコムは警備会社でもいち早く機械警備を目指して出発しました。

創業者の先見性があったからです。だからこそ、その可能性に自分をかける多くの人材が集まることができました。企業というのは、そういう人の集積によって可能性が広がるのです。

そういう可能性の中にリーダーというのは生まれてくると考えることができます。そこで、前田修司社長の運命式を見てみることにしましょう!

★前田修司社長さんの運命式をみてみよう!

タイプ24-29:人情的な人のつながりの中で、知識や情報を元に知的に気配りするタイプ

<前田修司社長の運命式>

19 14 24

14 29 15

24 15 20

<前田修司社長の流運>

13  9 22 18 22 18 22 18

 9 14 18 23 18 23 18 23

前田修司社長の運命式はなかなか特徴のある運命式をしています。
技術畑というから、本性29の頭脳派のクールな雰囲気だけかと思いきやそうでもなく、心霊数24の人のつながりをつくる人情家でもあります。
また、仕事数24も人の中で仕事をすることに、人を扱う人に関係した仕事をすることに運勢があります。

そのように運命式を見てまいりますと、前田修司社長は様々な技術開発を進めてきたのは、すべて人に関係することばかりです。ということは人に愛情を持って、または人との関係性をしっかりと結べることができているからこそ可能であったということになります。

それに技術畑に必要なことというのは、実はインスピレーションです。
このインスピレーションを前田修司さんは持っています。
エジソンもいってました。1%の霊感が必要だってね!
そういう感性の可能性を持っているということです。

前田修司社長は流運の流れを見ていくと、人気数に外交的な可能性のある大きな運勢をずーと持っているのです。ここが前田社長の強みであるということです。人と技術を連結できるということなのだと思います。

●・・・ひとこと・・・

普通は運命式というのは、バランスの問題なのですが、ときにアンバランスな場合もあるのです。そのアンバランスを自分の個性にしてしまうということもできるのです。すると、今まで自分の弱点と思っていたことがかえって強みになるということです。例えば、人情的であるというのは、いい面もあるのですが、人に引っ張られるという側面もあります。知的なクールさと人情というのは、両極面なのですが、これのバランスをとることを覚えれば、凄い魅力的な人になれるのです。そう、落差は刺激的なのです。

 

◆◆◆伊藤 雅俊さん(2010年3月8日の時点の記事)

●日本食の良さを世界へ

伊藤 雅俊(いとう・まさとし)さん
味の素社長
  1947年生まれ。東京都出身。71年慶応義塾大学経済学部卒業、味の素入社。味の素冷凍食品社長、味の素常務執行役員、専務執行役員、食品カンパニープレジデントなどを経て、2009年6月から味の素社長兼最高経営責任者。
  味の素は昨年、創業百年を迎えた。「食品」「アミノ酸」「医・健康」の3分野を連携させ、全世界で事業展開する成長戦略を描く。次の百年に向けて、グループの原点である「うま味」の発見に始まる創業の精神から独自の事業スタイルを探る。

伊藤さんは、「うま味を利用しただしが、日本食の基本。日本食の良さを世界に広めるのが我々の仕事」と語る。

調味料分野で世界一
  味の素は昨年、創業百年を迎えました。当社が百年間、仕事をさせていただくことができたのはなぜかと考えた時、「なぜ、おいしいか」を探究するとともに、「国民の栄養不良を改善し、健康に貢献したい」という創業の志があったからだと思います。

 1908年、池田菊苗博士が「うま味」という新しい価値を発見したのが当社の始まりです。湯豆腐の昆布だしに着目し、4つの基本の味である「甘味」「塩味」「酸味」「苦味」と違う、もう一つの味があると研究を始めました。グルタミン酸というアミノ酸の一種を発見し、「うま味」と名付けたのです。

 アミノ酸からスタートして現在、食、健康・医薬の分野が重なり合って事業展開する、世界でも意味のあるユニークな会社に成長したと考えています。今後も調味料の分野で世界一であるとともに、アミノ酸の分野で世界一の技術を持ち、世界の最先端を走り続けます。

 食品会社だからできる医薬事業と、健康に貢献できる仕事をしていきます。健康に対する市場の要望と環境を意識するとともに、食の安全に配慮した商品を供給します。時代の要望にあった商品づくりをすることで付加価値を生み出します。

 味の素グループはこれからの百年、人類の基本課題である健康、食資源の確保、地球の環境保全への対応に挑戦します。「おいしさの本質を究めて健康な生活をつくり出す」ことで全世界に貢献していきたいと考えています。

低カロリーでも美味
  近年、先進国では過剰な栄養摂取が問題になっています。対応として塩分やカロリーを減らすと味が物足りなくなりますが、だしを使うことで、カロリーや塩分が少なくてもおいしく料理することができます。

 一方、開発途上国では、栄養不足が問題になっている国が少なくありません。

より多くの人々に、料理でうま味を上手に利用してもらい、おいしく食べてもらいたいと考えています。うま味調味料を買いやすい価格で買って頂けるよう、小容量のグラム単位の商品を開発し、2009年度では世界100か国で約100億袋の販売を見込んでいます。

 海外は、現在の130か国から150か国に進出地域を拡大し、売上高の海外比率を30%から40%へと拡大を図ります。

 うま味を利用した「だし」が、日本食の基本です。「うま味」を世界に広め、世界中の人々の健康につなげるのが我々の仕事であると思っています。それが、「うま味」を世界で初めて発見した会社の使命であると考えています。(続く)

<メモ>味の素
  1909年創業。資本金798億6300万円。従業員数は単体3733人、連結2万6869人(2009年3月末現在)。売上高1兆1904億円(連結、同年3月期)。

 今年を新たな成長に向けた『構造改革』のスタートの年と位置づけ、4月から新しいコーポレートスローガン「おいしさ、そして、いのちへ。」を掲げる。

(2010年3月8日 読売新聞)

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■味の素の総帥として・・

創業100年を迎えて、味の素としては原点にかえった仕事をしようということだと思います。それで、「うま味を利用しただしが、日本食の基本。日本食の良さを世界に広めるのが我々の仕事」というコンセプトから、時代の要求に応え続ける企業価値を追求しようとしています。

そういう観点を持ったトップリーダーである伊藤社長を見てみることは、リーダーのあり方を知る上でも必要ではないでしょうか?

★健康、食資源の確保が企業の命題

単なる食品企業にとどまらないで、国家的な戦略の中に味の素という企業を位置づけようとする野心的な意気込みが感じられます。
地球の環境保全への対応と「おいしさの本質を究めて健康な生活をつくり出す」ことで全世界に貢献していくというのは、企業がますますグローバル化する方向であるということになると思います。

そのような企業戦略は、国際情勢や経済状況がそうさせるという側面もありますが、トップに立つ人の持っている思想や方向性力量にも左右されるところが大きいと思います。そこで、伊藤雅俊社長の運命式を見てみましょう!

★伊藤雅俊社長の運命式をみてみよう!

タイプ28-46:戦略的思考を中心として、まじめに着実に対応するタイプ

<伊藤雅俊社長の運命式>

33 24 37

15 46 31

28 22 40

<伊藤雅俊社長の流運>

 8 11 12 16 17 11 12 16

11  6 16 10 11 15 16 10

伊藤社長は創業100年を迎えた企業の原点を見つめて、「うま味を利用しただしが、日本食の基本。日本食の良さを世界に広めるのが我々の仕事」と位置づけて、総合的な世界戦略を打ち出しています。

このような観点はどういうところから出発するのでしょうか?
伊藤社長の経歴は華々しいのですが、その運命式から伊藤社長を見てみましょう!
伊藤社長の運命式は、タイプは戦略的思考、生真面目と楽天家の両方の顔の持ち主で仕事数は成果主義になります。しかし、人気数の人に対してはいい格好をしたい親分肌といえます。

流運を見れば、伊藤社長の運勢の流れはとてもいい流れになっています。このことは、伊藤社長に迷いはなかったと考えていいと思います。もちろん人間ですから様々な局面に出会うでしょうが少なくとも、自分の持っている世界を信じて進めることのできる強い運勢があるということです。

リーダーとしての資質は、単に人を指導する命令的な資質があるというだけではリーダーにはなれません。ちゃんとした成果を出せること。それから、人が考えない先まで予想したり、可能性を考えたりと意外性をしっかりと持っていることなどがあります。それに、暗い人はダメです。明るくなければなりません。

そういうことからいうと、伊藤社長はそういう先見性というか長いスパンでものごとをみることができる人で、明るい人であるともいえます。
味の素が今後の100年の計を考えるには、いい人を選んだと思います。

●・・・ひとこと・・・

リーダーである前に人であることとよくいわれます。でも人であることを突き詰めれば、それは自ずとリーダーになれるというものではないでしょうか?
最初から位置があってリーダーとして保証されていいるというのであれば、真のリーダーにはなれません。というよりはそういう人は危機に弱くて、結局は組織を導いていくことはできません。
リーダーは最高と最低を知っていて、引力の母体であるということが必要なのでしょう!

ここに文章が入りますここに文章が入ります

●三井製糖・井原芳隆社長(2007年8月24日の時点の記事)

読売新聞ジョブサーチインタビュー

もちろん、新聞記事であるから多少の脚色がある事も念頭において、運命式から見る社長と企業のあり方を見ることも為になるのではないかと思う。"企業は人なり!"とは、よく言われる。結局会社の運命を左右する人は、企業トップですから、トップを知ることはとても大切であると思います。

◆プロフィール
1945年、神奈川県生まれ。68年、慶応義塾大学法学部卒業、三井物産入社。ロンドン支店砂糖課長、食料本部糖質発酵部粗糖室長などを経て92年、取締役秘書室長。2002年に新三井製糖代表取締役社長。05年、新三井製糖、台糖、ケイ・エスの3社合併により、三井製糖代表取締役社長。精糖工業会の副会長、広報委員長でもある。朝食の定番は、砂糖をたっぷりまぶしたグレープフルーツという。
「健康的な食生活のために力を注ぎたい」――。健康志向の時代を見据え、砂糖メーカーのトップとして陣頭指揮を執る。学生時代に俳優の加山雄三さんのバックバンド「ザ・ランチャーズ」でならすなどギターの名手としても知られる。

◆黒子に徹し体得した「経営の王道と度胸」

私の使命は、豊かで健康的な食生活のために貢献していくことです。砂糖の消費を少しでも増やしていくことはもちろんですが、糖尿病などの生活習慣病につながるとされているメタボリックシンドロームを予防する甘味料を使った商品開発にも取り組んでいます。

 私どもで開発した砂糖由来の甘味料「パラチノース」が内臓脂肪の蓄積の抑制と、血糖値の急激な上昇を抑える効果があることが大学との共同研究で分かりました。ブドウ糖が脳のエネルギー源になっていることなど砂糖の良い面を訴求しながら、パラチノースなど健康に配慮した機能性甘味料を使い、高齢者用の食品や病院食の開発に資するという形で、砂糖を補完する商品の開発にも、力を注ぎたいと思っています。

 そのために、今年6月からカロリーをゆっくりと摂取することを主眼にした「スローカロリープロジェクト」をスタートさせたところです。甘いものは、癒やしの効果があると思っています。甘いものを食べるときには、穏やかな顔をしますから。

 思えば、黒子に徹した人生を歩んできました。高校時代は、野球部のマネジャーでした。甲子園まであと一歩のところで負け、悔しい思いもしました。大学時代は半年でしたが、加山雄三さんのバックバンドの一員として演奏するチャンスに恵まれました。商社時代は、秘書として経営陣の補佐をしてきました。

 自己流でギターを弾けるようになったお陰で、加山さんにお会いできたのは貴重な経験でした。同じ大学で親しくさせていただき、「想(おも)い出の渚(なぎさ)」をヒットさせた「ザ・ワイルドワンズ」のリーダー加瀬邦彦さんを介してです。

 加山さんに初めてお会いしたのは、都内のスタジオです。とてもオーラのある方だと思いました。バックバンドとして、加山さんの30分のテレビ番組の中で毎回1曲演奏しました。大学生ということもあり、早めの時間に収録があり、「早く帰って勉強しろ」と気遣っていただきました。そのころいろんな方にお会いでき、人前で物おじしない、度胸がついたと思います。

 音楽の世界は、憧(あこが)れでしたが、ギターの実力もプロを目指す自信もなく、世界に羽ばたける仕事をしたいと総合商社に入りました。今でも好きなビートルズの国、イギリスに行ってみたいというのもありました。念願かない、6年間ロンドン勤務を経験しました。そのときに買ったギターは今でも愛用しています。

 商社では、今の仕事と関連する砂糖も扱いました。社長秘書、秘書室長として秘書業務も長かったです。社長、会長、専務始めトップの業務効率を上げるため、黒子役を通じて経営の王道を学べました。現在の会社は合併を重ねており、6社のDNAが引き継がれています。社員とともに時代に即した仕事をしたいと思います。(談)

(2007年8月15日 読売新聞)

■「黒子に徹した人生」といいながら、ギターの腕はセミプロ級というから、やっぱり能力ある人は違うなどと思ってしまう。その秘密はどこから来るのか?
井原芳隆氏の運命式をみてみることにしよう!

■井原芳隆さん
タイプ22-32:霊的な直感や霊的な影響力を受けて、柔軟性ある対応が更に変化するタイプ

<井原芳隆社長の運命式>
25 14 21

15 32 17

22 18 28

<井原芳隆社長の15年周期の運勢>
14 11

12  8

この運命式の中から、「黒子に徹した人生」と芸能の感性の秘密がある。それをひもといてみたいと思う。

●自分の直感的な感性と、人や物事に対する柔軟性がポイント

社会的な性格をみていくと、全てに感性が優先していることが分かる。理屈は後からついてくるのである。だから、何が正しいのかということを考える前に、これはやるべきとか、これは考えた方がいいとかそういう想いが先にわいてくるのだと思う。それを後から、どうしてそうなのかという理由を考えて整合性を付けているのである。だから、この感性が井原社長の命である。

芸能的な分野が可能性を持っているというのもこの感性の持つ力のお陰ではないかと思う。この心霊運と本性の組み合わせでは、少しタイプが違うが、プロゴルファーの横峯さくらさんの運命式もよく似ているのである。

■横峯さくらさん
タイプ22-32:霊的な直感や霊的な影響力を受けて、柔軟性ある対応が更に変化するタイプ

<横峯さくらの運命式>

29 14 29

15 32 17

22 18 28

横峯さくら氏も同じように感性のプレーヤーである。それが知的な作業となってゴルフに現れるのである。
井原社長の場合は、この持っている感性が音楽性へと発展したわけであるが、十分プロになっても、活躍できるだけの運命式的な裏付けは持っている人である。

●情熱的な仕事数としっかりとした人気数

仕事数は、目的型の一途さを持っている。情熱型なのだ。だからこそ、仕事面に向いては、多くの苦労があっても自分の感性が納得すればそこに一生懸命になれるのである。それが、氏を支えてきた大きな力なのである。この仕事に対する目的観と使命感がいい意味で人間関係にも影響を与えている。
人とのつき合いにもぶれることがないのである。シックスセンスを持ちながらちゃんとした人間関係をつくることができるのが強みなのだ。

●15年周期の運勢が強い支えになっている。

井原社長の15年周期の運勢を見ていくと、実に安定したバランスがいいのである。ただ、感性の良さは環境圏にも影響がある。だから、良い環境をつくれば伸びるのだが、環境がサポートしないと問題になる。そのことは、日頃の循環サイクルで善のサイクルをつくるようにすればいいのだ。「いいことを考えればいいことがおこる」ということなのだ。

●ポイント

感性をもとにした新しい発想がなければならないのだが、それを可能にするのは、人に対する善行だ。そういう人のやる気のサイクルをつくることが必要と思う。または目に見えない世界への自分の持つイマジネーションの世界へ探求することだ。それを忘れてしまうと、エネルギーがなくなってしまうようになる。

 

黒子に徹する

商船三井社長・芦田 昭充 (2007年8月26日時点の記事)

読売新聞ジョブサーチインタビュー

◆プロフィール

1943年、島根県生まれ。67年京大教卒、大阪商船三井船舶(現商船三井)入社。子会社出向、サンフランシスコ駐在、常務、専務、副社長を経て04年6月から社長。常務時代には、ナビックスラインとの合併に尽力する。大学時代は陸上部に所属し、年に数回は国立競技場で陸上競技を観戦するという。

◆南米、アフリカ 挑戦の連続

 〈入社間もない1969年3月、子会社の内航海運会社、商船三井近海に出向を命じられた〉

 ショックはありませんでした。どこでもすぐになじむ方なので。むしろ、海運の基礎的なことは出向先ですべて覚えましたね。商船三井のように大きい会社だと、コスト計算も、ここはこの部署、あそこはこの部署と分かれているのですが、小さい会社だと全部1人でしないといけません。

 当時、隣の課に鬼軍曹みたいな人がいて、いつも怒られていました。「書類は見るな、頭にたたき込んでおけ」「まだこんなこと覚えてないのか」と。当時は本当に大変でしたが、今にして思えば、色々なことを徹底してたたき込まれ、鍛えられました。

 若い時は苦労した方がいいですよ。優しい上司の下に付いた人は、途中からあまり伸びません。上からガンガンやっつけられた人が伸びる。もちろん、その時は大変ですけどね。

 〈71年、本社に戻ると持ち前の行動力を発揮していく〉

 本社に戻って、プラント・チームにいた時のことでした。住友商事から、アマゾン川の上流にあるマナウスという都市に、コマツの52トンブルドーザー52台を運んでくれと頼まれました。

 1度は断りました。アマゾン川は、雨期は洪水で流れが変わるうえ、川の中を重い流木が流れるので、スクリューが壊れてしまう危険があったからです。しかし、何とか実現したいという思いが募り、商船三井のサンパウロ在勤員事務所に「どういう船がアマゾン川を上っているか報告してくれ」と頼みました。

 すると、ソ連(当時)の船が1万トンのセメントを積んでマナウスに入ったという報告が入ってきました。「これはいい情報だ」と思い、さっそく担当部へ行って「ソ連の船が通っているのに、世界に冠たる日本船が行けないわけがない」と何度も説得し、ブルドーザーを無事、マナウスまで運ぶことができました。

 ★「チャレンジ精神としつこさ、そして裏付けるデータがあれば、やはり断れません。若い人は、会社で誰もやったことがないことにチャレンジするといい。僕はずっとそういう思いを持ってきました。」★

 80年代の初めころ、日本の古々米がアフリカにたくさん輸出されていました。運賃は輸入国側が支払うのですが、彼らには支払い力のないことが多かった。会社は後払いを禁じていましたから、このままでは商売になりません。

 そこで、商社が貿易決済で使っているLC(信用状)を海上運賃にも利用できないかと考えたのです。LCは、銀行の信用供与によって代金を確実に回収できるようにしたもので、LCの利用は日本の海運業界で初めて、世界でも前例がなかったかも知れません。

 しばらくして、財務担当者から「100万ドルの運賃が入ってきましたが、思い当たることはありますか」と尋ねられました。古々米の輸送運賃です。思わず「それや! オレのところの運賃や」と叫び、うれしくて、その日は仲間と飲み明かしましたよ。

 〈85年のプラザ合意後に円高が急激に進み、未曽有の海運不況に見舞われた〉

 87、88年、日本船主協会会長だった相浦紀一郎社長(当時)の秘書として、政治家、役所と余剰船員対策などの折衝にあたりました。あのころは「会社はだめになるかも」と思いました。1ドル=100円になったら会社はつぶれると確信していましたね。

 しかし、それを乗り越えて1ドル=80円になった時は、逆につぶれないだろうという自信がありました。居直りみたいですが、「これまでの円高でも大丈夫だったのだから今度もやれる」と。業界再編が進み、6社あった海運大手は3社になってしまいましたが。

 当時は、毎月の取締役会で早期退職する船員があいさつをしていました。今の若い社員には「あなた方が今あるのは、20年前に辞めて頂いた先輩たちがいるからだ。それを忘れないで欲しい」と言っています。

 中国経済の発展ぶりを見ると、当面、海運需要は伸び続けるでしょう。運航隻数を2012年度末までに現在の1・5倍の約1200隻に増やすつもりです。ただ、大型船の引き渡しは建造を発注した5年後、それから15年をかけて償却します。財務的な負担は大きい。その間に何があっても耐えられるように、現在5500億円ある自己資本を、1兆円に引き上げたいと考えています。(聞き手 佐藤千尋)

(2007年8月24日 読売新聞)

■出向から本社へ、そして新しいことへのチャレンジ・・・

常に時代の流れの中で戦いながら、道を切り開いてきたそのエネルギーはどこから来るのでしょうか?巨大海運会社を支えるトップにまで上り詰めたその秘密はどこから来るのか?
芦田昭充氏の運命式をみてみることにしよう!

■芦田昭充社長
タイプ22-27:霊的な直感や霊的な影響力を受けて、自分の価値観、考え方の中で理解するタイプ

<芦田昭充社長の運命式>
18 12 21

13 27 14

22 15 20

<芦田昭充社長の15年周期の運勢>
16 14 

15  9

この運命式の中から、新しいチャレンジ精神の秘密がある。それをひもといてみたいと思う。

●信念と直感力が原動力・・・

 社会的な性格をみていくと、面白い特徴がある。それは、前回の三井製糖の井原芳隆社長と運命式がよく似ていることである。どこが似ているかというと、心霊数や仕事数なのである。ここが同じような数字が並んでいる。

三井の名前の入った大手企業のトップが、共に同じような感性の人であるところに面白さがある。しかも、仕事数は情熱型の仕事人間である。
こういうところに、会社の運勢が隠されているように思えてならない。

芦田昭充社長は、自分の持つ直感力という感性に加えて、強い信念という価値観を持っている。それに、物事を逸脱するようなことを戒めるという意味では、自分の感性をコントロールすることができるのである。

この感性と信念力というコンビネーションが仕事上で大きな力を発揮していくから、人生は楽しいといえよう!
井原社長にしても、芦田社長にしても、トップとして想い決断を背負わされていることは間違いない。しかし、その重さを少しも感じさせないところに現代のトップの有り様がある。自分の感性で時代の先読みをちゃんとしているからだ。今のような世界の経済に直接影響を受ける時代では、この感性は大切な要素なのかも知れない。
同じことを考えていては生き残れないからだ。

●情熱的な仕事数と人への思いやり

仕事の運勢は、情熱的で目的型だ。この仕事の運勢を生かしているのが、心霊数と本性のコンビネーションだ。感性と信念こそ新しい方向性の原動力といっていい。そういう意味では自分に素直であるということが大きな財産になっている。もう一つ、情熱的な仕事運を持ちながら、人に対しては思いやりを持てるところがいい。その思いやりも自分の人に対する感性と自分の信念から来る思いやりだ。だから、ちゃんと人を生かすことができる。
そこが大きな強みになる。
そうでありながら、家庭の中では意外と愛されたい人でもあるのだ。

●15年周期の運勢も自分の持つ感性が強調されている。

芦田社長の15年周期の運勢を見ていくと、着実に進めるとき、それから感性で勝負をかけるときなど特徴がある。それでも、マイナスの要素を持つ運勢はない。自分に素直であり、その声に耳を傾けている内は、いつも大きな見えない力が味方をしてくれるのだ。やっぱり、背景的な先祖の力がいいのかも知れないと思う。

●ポイント

アンテナを高くし、自分を信じることこそ全ての新しい物事の出発点になる。
★「チャレンジ精神としつこさ、そして裏付けるデータがあれば、やはり断れません。」★
この生き方は、今後も多くの道を開拓することのできる精神になる。やっぱりトップに立つ人は自分の運勢の生かし方を知っているようだ。

 

直感力

●44歳で転職若手に学ぶ(2008年5月12日時点の記事)

溝呂木 斉(みぞろぎ・ひとし)さん
ディスコ社長
「専門性を高めれば高めるほど、新しい技術が生み出され、ビジネスチャンスも広がってくる」=田中成浩撮影

溝呂木 斉 ディスコ社長
溝呂木 斉(みぞろぎ・ひとし)さん
ディスコ社長

1939年、神奈川県生まれ。62年慶大経卒、横浜ゴム入社。83年にディスコ入社。89年常務、98年副社長、2001年に社長。

■偶然のきっかけ
円盤状のウエハーに焼き付けられた幾つもの半導体を、ダイヤモンドで一つずつチップに切り分ける「ダイシング」という半導体切断装置。ディスコは世界市場の7割、国内では9割という圧倒的なシェア(占有率)を誇る。

溝呂木が東京・大田区にあるこの会社に転職し、社長まで上り詰めたのは、大学の空手部時代の縁が生んだ「全くの偶然」がきっかけだった。
横浜ゴムでは営業畑を歩み、課長まで順調に昇進した。1982年のある日、東京・新橋の中華料理店で部下と食事をしていると、隣のテーブルの客から声をかけられた。

空手部の1年後輩で、ディスコの専務を務めていた創業一族の関家臣二だった。卒業以来20年ぶりの再会に盛り上がり、部で2年先輩だった臣二の兄、憲一も副社長として活躍していることを知った。
その数日後、ディスコの関係者が溝呂木を訪れ、いきなり転職を持ちかけられた。

上場企業の課長が会社を移るなど、考えられない時代だった。しかし、憲一から直接「急成長しているダイナミックな業界だ」と強く説得され、「サラリーマン生活の残り半分を、違う業界で過ごすのもいいかな」と思った。
翌年3月、営業企画部長として44歳で入社した。臣二から、新橋の店では「こんなに一生懸命仕事の話をする上司も珍しいな」と隣の客の会話に感心し、何気なく顔をのぞいてみたと聞かされた。

転職当初は専門用語や図面の見方が分からず、社員から必死に知識を吸収した
需要が落ち込み、初の赤字に転落した93年当時、事業部長になっていた溝呂木を、20代の技術系社員が毎日訪れ、新機種の提案を繰り返した。

最初は平凡だと思っていたが、内容はどんどん魅力的になっていった。その社員を筆頭に、「Xプロジェクト」という若手15人の開発チームを作った。苦しい時期だったが大きな予算を与え、「若手が勝手にやっている」という反発には自ら防波堤になった。
やがて6機種が完成した。いずれも徹底的にコストを削り、幅が半分の50センチという小型装置の開発も成功した。「面白いように売れた」と振り返るように、若手の意欲が会社のピンチを救ってくれた。

■シェアに頼らず
 
社内共通の価値観などを定めた「ディスコバリューズ」で結束を強め、売上高が最高を記録した2001年、憲一から社長のバトンを渡された。直後にITバブルがはじけ、翌年は18億円の赤字に。変動が激しい半導体市場の荒波をいきなり受けたが、「これ以上悪くならない」と開き直った。

 07年3月期の連結売上高は860億円と最高を更新した。約2400人のトップとして、「シェアに安住せず、『切る、削る、磨くはディスコしかない』と言われる会社にしたい」と夢を描く。

(敬称略)

香取直武

(2007年11月26日 読売新聞)

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■リーダーの運命式はやっぱりリーダー的である

「溝呂木が東京・大田区にあるこの会社に転職し、社長まで上り詰めたのは、大学の空手部時代の縁が生んだ「全くの偶然」がきっかけだった。
横浜ゴムでは営業畑を歩み、課長まで順調に昇進した。1982年のある日、東京・新橋の中華料理店で部下と食事をしていると、隣のテーブルの客から声をかけられた。

空手部の1年後輩で、ディスコの専務を務めていた創業一族の関家臣二だった。卒業以来20年ぶりの再会に盛り上がり、部で2年先輩だった臣二の兄、憲一も副社長として活躍していることを知った。
その数日後、ディスコの関係者が溝呂木を訪れ、いきなり転職を持ちかけられた。」

溝呂木社長が横浜ゴムにそのままいても、それなりに大企業でリーダーとしてやっていくことができたはずである。
それくらいに運命式は安定している。

その溝呂木斉さんの運命式を見てみよう!
■溝呂木斉さん
タイプ29-33:リーダー的自分を中心として、知識情報を集め、細かく知的に気配りするタイプ

<溝呂木斉さんの運命式>

25 24 32

21 33 19

29  9 20

<溝呂木斉さんの流運>

14 14 12 19 11 11 12 10

11  9 16 16 17 15 16 16

溝呂木斉さんの運命式からは、トップに必要な資質というものがよく見えてくる。それは、細心さと大胆さだ。
この2つを兼ね備えるのも、そしてこのバランスをとるのも実は難しいのだ。
溝呂木斉さんの場合は、こういう細心な気配りの世界を自分の内面に持ち、同時に本質的には男気のある大胆さを持っているということがいえる。

ただこういう資質があるからといってリーダーになれるかというと、そんなに甘くはない。
溝呂木斉さんのそれぞれの運勢もバランスがいいといえる。

◆仕事運が物作りに向いていた

「転職当初は専門用語や図面の見方が分からず、社員から必死に知識を吸収した需要が落ち込み、初の赤字に転落した93年当時、事業部長になっていた溝呂木を、20代の技術系社員が毎日訪れ、新機種の提案を繰り返した。
最初は平凡だと思っていたが、内容はどんどん魅力的になっていった。その社員を筆頭に、「Xプロジェクト」という若手15人の開発チームを作った。苦しい時期だったが大きな予算を与え、「若手が勝手にやっている」という反発には自ら防波堤になった。
やがて6機種が完成した。いずれも徹底的にコストを削り、幅が半分の50センチという小型装置の開発も成功した。「面白いように売れた」と振り返るように、若手の意欲が会社のピンチを救ってくれた。」

こういう物作りの現場で、営業職からやって来て物作りのスピリットを造成できるかというとそれはなかなか難しいのだ。こういうプロジェクトチームが成功したのは、溝呂木斉さんの運命式に創造的な仕事運を持っていることが幸いしたのだ。

もちろんそこには、大胆さと細心さという資質がうまく働いていたことはいうまでもない。
このバランスがうまくとれるというのは育ちが良かったことを物語っている。

■創業家の人々の運勢

溝呂木斉さんをヘッドハンティングした創業家の人々はどんな運勢であったのかを考えてみよう!
企業は人なりという!人によって企業は生き延びることもあるし、逆にしぼんでしまうこともある。常に変転する中に活路を見いださねばならないのだ。
部活仲間であったという縁でスカウトしたのだが、そこにはやはり人を見る目というものが必要であった。
「臣二から、新橋の店では「こんなに一生懸命仕事の話をする上司も珍しいな」と隣の客の会話に感心し、何気なく顔をのぞいてみた」

それを感じ取った関家臣二と関家憲一の運勢を見てみよう!

■関家臣二さん
タイプ23-33:何が何でも自分がリーダーでなければならない自分中心タイプ

<関家臣二さんの運命式>

26 24 31

16 33 17

23  9 19

■関家憲一さん
タイプ31-41:構想理想の目的を中心として、パートナー型であり、目的を指向するタイプ

<関家憲一さんの運命式>

25 24 40

15 41 26

31 17 27

この二人の創業家の兄弟の運命式はおもしろい。さすがにいい運勢をしている。だからこそ、次の時代に必要な人材を見つける能力や運勢があったといえる。

目的指向型の憲一さん、自分が一番だと思って、自分の世界をしっかりと押し通す臣二さん、この二人の特徴はいずれもリーダーとしては素晴らしいが、組織が大きくなる中で、複雑な組織を有機的に運営するには少しかたくなりすぎている運勢だ。そういうところへ溝呂木斉さんに出会ったというわけだ。

だからこそ、バブル崩壊後の危機も彼の持つ運勢力で会社が生き延びることができた。そういう決断をする創業家もやはり力があったということである。

■「ディスコ」良質な企業文化の3か条

①組織の考え方の基準を、社員とある程度の線で合わせる。その為の戦略を徹底し、健全な成長を促す。

②どんなに大きな組織でも、目的に向かって1人の人間のように動けることが理想。社員が有機的につながることが重要。

③昨日より今日、今日より明日と一歩ずつ進む。世の中の役に立ったときが我々の成長だ。

●ポイント

新しい血の導入というのは、できそうでなかなかできないものである。それをやってのけた創業家の人々も凄いが、自然体で受けて立った溝呂木斉社長も凄い。ディストリビューターで動き出したエンジンが安定した動きをするには、ディストリビューターに変わるシステムがなければならない。そういう意味では、力強さから調整型へと良い意味での転換を果たしたといえる。

 

●仲間のため闘うヒーロー(2008年6月5日時点の記事)

■平山亨(ひらやまとおる)さん

映像プロデューサー
「子供番組をバカにする人もいたけれど、僕は面白くてたまらなかった。子どもに近いのかもね」=竹田津敦史撮影
1929年、東京都生まれ。54年に東京大を卒業し、東映に入社。65年に東京本社テレビ部プロデューサー。多くのヒーロー番組を企画。著書に「仮面ライダー名人列伝」(風塵社)など。

平山亨(ひらやまとおる)さん

■不本意の転身
  社会派映画にあこがれて、東映に入社。配属された京都撮影所は時代劇映画の全盛期で「スターさん」がひしめきあっていた。11年間の助監督を経て、監督デビューする。
ところが、映画の斜陽化とともに「東京本社でテレビプロデューサーに」と声がかかる。「業界では電気紙芝居とバカにしていたから、嫌だったねえ」。映画とテレビではシステムが違う。勝手が分からないまま企画書を書き、テレビ局で頭を下げ続けた。

 転機は「悪魔くん」(水木しげる原作)を映像化した時だった。東映初の特撮テレビドラマとなった「悪魔くん」は、子供の人気を獲得。途端に、テレビ局が平山の企画に注目し始める。
71年には石森章太郎(当時)原作の「仮面ライダー」をプロデュースする。労働争議の関係で既存の撮影所が使えず、主役の藤岡弘が撮影中に骨折するなど、滑り出しは順調ではなかった。

 「でも、とにかくこの作品を当てないと、の一念だった」と振り返る。優秀な腕を持ちながら、平山同様、京都を追われた「仲間」が大勢いる。作品を当てて、仕事を増やし、また仲間と一緒に映像の仕事をしたいと思った。
幸い、仮面ライダーは視聴率30%超を記録。日本に変身ブームを巻き起こした。

 仕事の依頼が殺到し、週に10本近い作品を掛け持ちしたこともある。「人造人間キカイダー」「秘密戦隊ゴレンジャー」「がんばれ!!ロボコン」など、数え切れないほどの特撮番組を作り出した。
89年、5年間の嘱託を経て、東映を退職。その後も変わらずに企画書を書いたが、フリーとなってからの企画はなかなか通らない。バブルが崩壊し、映像業界に余裕もなくなっていた。

■長期のリハビリ

 ある夏の明け方、自室で企画書を書いていた平山は、突然倒れる。脳内出血だった。記憶は1週間戻らず、死線をさまよい、40日間の入院と長期のリハビリを余儀なくされた。それでも企画書のことしか頭になく、退院の翌日、映像会社を訪問した。

 そのがむしゃらさの根底にある気持ちは、「仮面ライダー」を作った時と同じだ。時が流れ、かつて共に番組を作った仲間が、定年などで映像作りの第一線を退くことを余儀なくされた。「志もやる気も、作品を作る腕もあるのに『場』がない彼らと、また一緒に仕事をしたいんだ」
2006年には、特撮ヒーロー番組のアクションを担当する事務所、レッド・エンタテインメント・デリヴァーの取締役に就任。アクションとも連携した企画を考案中だ。

 「何回企画がボツになっても腐らない。紙と鉛筆さえあれば、新しい企画を作れるんだから」と笑う平山の夢は、100歳まで仕事を続けること。子供たちに夢と希望を与えるような作品を、再び作りたいと考えている。
(敬称略)
鈴木美潮
(2007年12月25日 読売新聞)

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■コツコツが運命を開拓する

「社会派映画にあこがれて、東映に入社。配属された京都撮影所は時代劇映画の全盛期で「スターさん」がひしめきあっていた。11年間の助監督を経て、監督デビューする。
ところが、映画の斜陽化とともに「東京本社でテレビプロデューサーに」と声がかかる。「業界では電気紙芝居とバカにしていたから、嫌だったねえ」。映画とテレビではシステムが違う。勝手が分からないまま企画書を書き、テレビ局で頭を下げ続けた。
転機は「悪魔くん」(水木しげる原作)を映像化した時だった。東映初の特撮テレビドラマとなった「悪魔くん」は、子供の人気を獲得。途端に、テレビ局が平山の企画に注目し始める。」

平山亨さん、映画監督を夢見てきたのに、社会情勢が彼を不遇の現場へと誘ってしまった。映画からテレビへの転身である。
それでも、くさらないでコツコツと企画書を書いて頭をさげ続けた。
そこにポイントがある。

その平山亨さんの運命式を見てみよう!

■平山亨さん
タイプ13-16:リーダー的自分であることが、自分の考え方、価値観、信念になる自分中心タイプ

<平山亨さんの運命式>

 9  8 15

 6 16 10

13  8 11

<平山亨さんの流運>

19 17 15 12 10 17 15 12

15 12 10 17 15 12 10 17

平山亨さんの運命式を見てみると、どこか運命式が空回りしていることに気がつく。それは、自分の主体性とリーダー型の強さ、そして物事に対する思い入れ、頑固(信念)でまじめなところ、こういう性格的な要素があるにもかかわらず、仕事数が見栄えがしない。それに人気数も人に気に入られようとするよりも、どちらかというと気をつかうところがあるのに気をつかうのが嫌な人なのでこれも今一といったところ。

このように書くとひどい運勢かと思われるでしょうが、そうでもないのです。実は運命式というのは、扱い方次第なのです。自分の運命式にあった方法をしっかりと行えば、運命式が動き始めるのです。動いてくれると、あとは運勢がやってくるのを待てばいいということになります。

この平山亨さんの場合は、そのポイントが、「思い入れ」と「コツコツ」なのです。自分の思い入れが強い分だけ、慣れない現場でコツコツを実践したのでしょう!これは親分気質の平山亨さんにとってはかなりきついことであったと思います。
でも、コツコツを忘れませんでした。そこが運勢を引き寄せてきたポイントなのです。
そして彼の流運(運勢の流れ)は、仕事を成就することのできるときに入っていました。

◆強い思い込み効果

「でも、「とにかくこの作品を当てないと、の一念だった」と振り返る。優秀な腕を持ちながら、平山同様、京都を追われた「仲間」が大勢いる。作品を当てて、仕事を増やし、また仲間と一緒に映像の仕事をしたいと思った。
幸い、仮面ライダーは視聴率30%超を記録。日本に変身ブームを巻き起こした。仕事の依頼が殺到し、週に10本近い作品を掛け持ちしたこともある。「人造人間キカイダー」「秘密戦隊ゴレンジャー」「がんばれ!!ロボコン」など、数え切れないほどの特撮番組を作り出した。」

思い込みというのは、悪いことのように思われるがそうではない。自分を信じているからこそ思い込むことができるのだし、それだけ自分の能力に自信があるということである。ただ、これをどこまで続けることができるかということの方が問題なのだ。
皆途中で投げ出してしまったりする。それでは意味がないのだ。
この平山亨さんは、思い込みと頑固さが信条だ。だから、そう簡単に自分を変えない。周りの人は、こういうところは変な人と想いがあるかも知れないが、それがいいのだ。

時が流れて、運勢は仕事のアイデアを生み出す時へと流れていく。強い思い込みと自信が作品へのアイデアとなって現れ、またその時に流運はアイデア運へと彼を導いた。この時の流れに乗れなければ、運勢はこない。
「時の時に時のことをする」その時は自分しかわからない。だから、平山亨さんは自分の運命式の通りに強い思い入れをもって生き抜いた。そこに点が味方をしたといって良い。

■病に倒れても変わらない姿勢

「ある夏の明け方、自室で企画書を書いていた平山は、突然倒れる。脳内出血だった。
記憶は1週間戻らず、死線をさまよい、40日間の入院と長期のリハビリを余儀なくされた。それでも企画書のことしか頭になく、退院の翌日、映像会社を訪問した。

 そのがむしゃらさの根底にある気持ちは、「仮面ライダー」を作った時と同じだ。
時が流れ、かつて共に番組を作った仲間が、定年などで映像作りの第一線を退くことを余儀なくされた。「志もやる気も、作品を作る腕もあるのに『場』がない彼らと、また一緒に仕事をしたいんだ」

 2006年には、特撮ヒーロー番組のアクションを担当する事務所、レッド・エンタテインメント・デリヴァーの取締役に就任。アクションとも連携した企画を考案中だ」

1995年、脳内出血で倒れた。しかし、頭の中にあったのは、がむしゃらな企画に対する想いだけであった。

ここでもう一度彼の運命式を見てみよう!

<平山亨さんの運命式>

 9  8 15

 6 16 10

13  8 11

やっぱり強い思い入れが平山亨さんを支えていることは確かだ。しかし、それ以上にもう一つの側面がある。それは、親分肌(リーダー気質)ということだ。

自分がやらなければならない。自分がやらなければ仲間を何とかできない。そんな親分としての責任が現れている。しかもそれも偶直なまでに変わらない想いのひとつでもあるのだ。だから、面白い人ともいえる。長く付き合えば味が出る人でもある。

もう一つ平山亨さんの魅力がある。それは親分型で頑固なわりには、自分のパートナーを必要とする愛情数ということなのだ。だから、どこかで人に頼ろうとするところがある。そこのところのバランスがさじ加減だ。いい年齢になればそれが生きてくる。

病を克服できるのもそこにエネルギーがあるからだ。
この生き方が次のような平山亨さんの「前向きに生きる3か条」となっている。

■「平山亨」前向きに生きる3か条

①どんなに無理だと思っても、何度もぶつかっているうちに道は開ける。
②「みっともない」とは考えない。達成のためには、さげたくない頭もさげる
③自分のためには出ない力も、仲間のためと思えば100倍出せる。

●ポイント

自分の運命式に素直であるというのは、簡単であるようで簡単ではない。そこには自分を失わない努力が実践されているということだ。批判や失敗、アクシデント様々なことが試練として人生にはある。それでも自分であり続けるところに運勢の方がやって来てくれるのだ。そこまで待てるかどうかが分かれ道になる。

 

●大庄社長・平辰さん(2008年7月5日時点の記事)

■平 辰(たいら たつ)さん

大庄社長
1940年、新潟県生まれ。28歳で焼き鳥店を開業。75年からチェーン展開を開始し、900店以上のグループに育てる。著書に「お母さんありがとう」。
1960年・・・日立製作所入社
1962年・・・友人と割り箸製造会社を起業
1964年・・・詐欺にあって退社、義兄のレストランの店長に
1968年・・・焼鳥屋「とき」を開くが不入りに苦しむ
1971年・・・居酒屋を開店、板前確保に苦心
1973年・・・「庄や」1号店を開店
1975年・・・独立制度を設け、社員の独立を奨励
1994年・・・悩んだ末に、東証に店頭公開
1999年・・・一部上場
2008年・・・現在

■平 辰(たいら たつ)さん

■自分の店なら頑張れる
「庄や」「やるき茶屋」などの大衆料理店グループを率いる平が、初めて開いた飲食店には、まったく客が入らなかった。
「店を開けばお客さんは入るものだと思っていたけれど、全然だめでした」

高校を出て東京の大企業に勤めたが、残業と満員電車が嫌になって退社。いくつかの仕事を経た後、東京・大田区に焼き鳥店を開いた。味には自信があったが、客は来ない。残った焼き鳥を持ち帰って自家消費する日々から脱却するため、思いつく限りのことをやった。

仕込みを終えた午後、銭湯に入り、居合わせた客の背中を流しながら自己紹介すると、風呂帰りに寄ってくれる客が現れ始めた。駅前では手製のビラを配り、店の前の通りを端から端まで掃除した。
「掃除は効果がありましたね。地元の商店街の人たちが、仲間として支えてくれました」

半年ほどで軌道に乗り、ここでためた資金をもとに、人を雇って居酒屋を始めた。順調に客は入ったが、今度は逆の悩みを抱えることになった。
「あまりの忙しさに、板前さんたちが『やってられるか』と怒って出て行ってしまった。彼らは仕事には困らないので、店のために頑張ろうという気持ちになってくれないんです。

店は繁盛しても、従業員が居着かない。どうすれば定着してくれるのか。調理師たちと話すうちに、彼らが自分の店を持ちたがっていることに気づく。それならと社員の独立を支援する制度を作った。
「最初のうちは『どうせ社長の身内だけだろう』と社内でも半信半疑の人が多かったようですが、公募で入社してきた人が店長になってから、みんなの目の色が変わった。

部下を育てて独立させた店長の給料を上げる制度も作り、グループは拡大していった。だが、店を増やすには資金がいる。「持ち株が値上がりすると、幹部が出て行くよ」との知人の忠告に悩みながらも株式を公開したのも、拡大のための資金作りだった。

■地方にも帰したい

「庄や」のスタートから35年、今やグループの店舗数は1000の大台に近づきつつある。拡大路線にはいつか限界が来るのでは、という問いに、平はこう答える。
「うちの元店長で、東北の実家に戻り、畑仕事の傍ら、近所の集会所代わりの店を開いた人がいる。地方には、後継者不足に困っている農村や漁村が多いですから、そんなふうに人を帰していきたいんです」

佐渡の自然の中で生まれ育った平にとっては、ごく自然な発想なのかも知れない。

敬称略(片山一弘)

(2008年7月7日 読売新聞)

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■自分の周囲の環境を整備していったことが足がかりになった

「「庄や」「やるき茶屋」などの大衆料理店グループを率いる平が、初めて開いた飲食店には、まったく客が入らなかった。「店を開けばお客さんは入るものだと思っていたけれど、全然だめでした」

高校を出て東京の大企業に勤めたが、残業と満員電車が嫌になって退社。いくつかの仕事を経た後、東京・大田区に焼き鳥店を開いた。味には自信があったが、客は来ない。残った焼き鳥を持ち帰って自家消費する日々から脱却するため、思いつく限りのことをやった。

仕込みを終えた午後、銭湯に入り、居合わせた客の背中を流しながら自己紹介すると、風呂帰りに寄ってくれる客が現れ始めた。駅前では手製のビラを配り、店の前の通りを端から端まで掃除した。
掃除は効果がありましたね。地元の商店街の人たちが、仲間として支えてくれました」

平 辰さん、いろいろな経験を経て、28才で自分の店を持つようになった。そこで、お客様に来てもらうために!ということを相当苦労したようだ。その打開策が商店街の掃除であったということだ。ここにポイントがある。

その平 辰さんの運命式を見てみよう!
■平 辰さん
タイプ9-14:人を大切にして人の和と人の輪を中心として、知識情報を集め、細かく知的に気配りするタイプ

<平 辰さんの運命式>

 7  6 13

 2 14 12

 9  8 13

<平 辰さんの流運>

20 15 10 16 11 15 10 16

20 17 12 16 11 17 12 16

平 辰さんの運命式を見てみると、この人は結構悩むタイプであることがわかる。しかも真剣に悩むのである。それに意外と細かい。良いところは人とのグループをつくったり、人を組織化したりというのは向いているということだ。

そんな平 辰さんが、安定した職業を辞めて、いろいろと試行錯誤をはじめるようになったのは、彼の仕事運の影響が大きい。どうしても、この仕事運では人に使われるのは我慢できないのである。自分がリーダーにならないといけないということになるから、結局何か起業をしなければならない方向にどうしてもなるのである。

28才で焼鳥屋を開業し、それが足がかりになっていくのであるが、その時に店を軌道に乗せていく集客に苦心したというのだが、ここに足がかりのポイントがある。

それは何だというと、ひとつは平 辰さんは真剣に考えて知恵を絞るタイプであるということだ。ここがポイントのひとつ。
次に、彼の流運を見てみると、ちょうど30才くらいまでは、周囲の状況や環境によって左右される運勢を持っていることがいえる。

だから、ここでうまく成功するには環境や周囲の状況を変えなければならないということになる。それに気がついたのだ。たぶんいろいろとやっている内に細やかな知恵の働きがそれに気がついたのではないかと思う。
だから、彼がやったことは、
★「仕込みを終えた午後、銭湯に入り、居合わせた客の背中を流しながら自己紹介すると、風呂帰りに寄ってくれる客が現れ始めた。駅前では手製のビラを配り、店の前の通りを端から端まで掃除した。」★

これは良い効果を上げるのです。自分のもっている運勢を上手に利用した結果ということになるからです。もちろん、この時の仕事数16は成就数ですから、この環境整備が運勢的によかったのはいうまでもありません。

◆自分の店を持ちたいというのが社員の願い

「半年ほどで軌道に乗り、ここでためた資金をもとに、人を雇って居酒屋を始めた。順調に客は入ったが、今度は逆の悩みを抱えることになった。
「あまりの忙しさに、板前さんたちが『やってられるか』と怒って出て行ってしまった。彼らは仕事には困らないので、店のために頑張ろうという気持ちになってくれないんです。
店は繁盛しても、従業員が居着かない。どうすれば定着してくれるのか。調理師たちと話すうちに、彼らが自分の店を持ちたがっていることに気づく。それならと社員の独立を支援する制度を作った。
「最初のうちは『どうせ社長の身内だけだろう』と社内でも半信半疑の人が多かったようですが、公募で入社してきた人が店長になってから、みんなの目の色が変わった。」

集客のポイントができてくるようになると、次は内部の問題になってくる。それがだいたいの企業がたどっていく道だからなのだが、仕事の内容が飲食ということであるから、問題がある。それは、特殊な技能の問題だ。長年の修行で築いた板前の腕である。どんなに頑張っても、自分の努力が報われないんだったら、誰も頑張りはしない。人が頑張るには、その人なりの頑張る理由というものがある。この業界では、板さんの多くが「何時か独立したい」というのが夢なのだ。

ここで、平 辰さんの知恵の絞りか違うまい。
それは運命式がグループ力をもっているから、
うまく人の輪を使った方がいいということだ。
そこで、従業員の聞き取り調査をした。そして、
自分の運命式の持つ知恵を絞ってみたのだ。

そこで企業の目標を外部と内部に分けて考えているということなのだ。
内部の目標をしっかりと実現することが外部の目標につながるようにしたということだ。その内部目標が「社員が店を持つ」というようにシステムを変えたということなのだ。

こうすることで、社員に力が出てきた。ちょうど30才以降の流運は目的指向型で運勢がでるようになっている。

 

 

★ミツカン中埜又左エ門の襲名★(2008年12月5日時点の記事)

■中埜又左エ門さん

食酢メーカートップのミツカングループ本社は本年創業200年を迎えた。今年6月24日の「中埜酢店」の設立記念日に、中埜和英社長は8代目又左エ門を襲名した。

■襲名という先祖の功労を相続
●襲名で自分の歴史的な位置を知る

襲名ということで有名なのは、お酢で有名なミツカンの社長である。代々ミツカンの社長は「中埜又左衛門(又左エ門)」を名告ることになっていて、実際に戸籍まで変えているというから面白い伝統だ。

実際に風土が人を造るというが、そういうことはあるといった方がいい。何も大都会で何かが進行しているというよりは、消費地としての都会を支える地方の技術力製造能力が新しい時代を創造してきたといえる。

そういう意味ではミツカンは都会と地方のあり方をしっかりと構築してきたように思う。地方文化というものが江戸期を通して熟成され、それが次世代を担う人材の宝庫にもなっている。ソニーの創業者でもある盛田昭夫はミツカンとも関係がある地方産業の担い手である盛田久左衛門家の第一五代当主を嗣ぐ地位にあった。

そういう歴史というのは、地方の物作りの風土を背景にしているからこそ、出てくるということがいえる。ミツカンの社長の又左エ門襲名というのは、そういう伝統と初代の精神を忘れないという大きな戒めがある。

運勢学的には、この襲名というものには直接な意味を持たないのであるが、運命式全体を左右する理念や考え方、価値判断といった見えない部分で大きな先祖的な背景の力になっている。

要するに襲名といっても、全部の名前をごっそりと先祖からいただくという「伊達政宗」公のような例もあるが、この場合は先祖の功績と運勢をそのまま引き継いで、それを現代の環境の中で新たに創造しようという強い意欲の表れになる。
しかしミツカンの場合は、襲名というのは伝統を相続するという老舗の大きな使命を持っていて、その為に先祖の偉業を忘れることなく受け継ぐという意味で、ミドルネーム的な襲名となっている。

そこが面白いのだ。だからといって運命式的に影響がないわけではなく、現在の当主である中埜又左エ門和英社長をみてみると、その影響の大きさが分かるような気がする。
ミツカンのホームページをみてみると、そのミツカンの歴史がよくわかる。
http://www.mizkan.co.jp/company/enkaku/index.html

1804年(文化元年) ・ 創業
酒粕酢醸造に成功した初代中野又左衛門が分家独立。造り酒屋が酢をつくる。
それは、勇気ある挑戦でした。

この初代中野又左衛門さんは相当苦労したのですが、その土台があったことによって、分家としての中野家が大きく世に出るきっかけとなったということになります。そのいきさつは、ミツカンの頁に詳しく載っています。
http://www.mizkan.co.jp/company/enkaku/episode01.html

そこで世界に向かって発展をする中埜又左エ門和英社長はどんな人なのかということを運命式的にみることも、襲名ということと先祖という観点からは重要なことになると思います。
中埜又左エ門和英社長の運命式をみてみましょう!

■中埜又左エ門和英社長
タイプ20-31:様々な自然、人間の環境的影響の中で、パートナー型の目的指向タイプ

<中埜又左エ門和英社長の運命式>

23 15 23

12 31 19

20 16 27

●ミツカングループ本社八代目・中埜又左エ門和英社長に聞く
「時代や環境の変化に合わせてそれぞれ又左エ門が意思決定を」

食酢メーカートップのミツカングループ本社は本年創業200年を迎えた。今年6月24日の「中埜酢店」の設立記念日に、中埜和英社長は8代目又左エ門を襲名した。襲名にまつわるお話や、同社の経営姿勢、あるいは今後の展開など忌憚のないところを伺った

―― 8代目又左エ門襲名に関してお聞かせいただけますか。先代がお亡くなりになって1年以上が過ぎて、この時期に襲名をしようとお考えになった確固たる理由がありましたか。もしおありでしたら、お聞かせ下さい。

これまでに知人の襲名には、何回か出会わせたことはありましたが、自分のこととして真剣に考えたことはありませんでした。襲名について考え始めたのは、実は、先代が逝去してからです。先代が逝去したから襲名するのではなく、自分にとって、あるいは、会社にとって大きな節目だから襲名するということにしたいと考えるようになりました。それが、創業200周年という今年であり、母なる会社である「中埜酢店」の80回目の設立記念日である6月24日ということです。また、ちょうど創業200周年を機会に新しいグループビジョンを策定しているところでもあります。

―― 8代目を継いだことで、ご自身のお気持ちの上で、何か変化はありましたでしょうか。

先祖代々の又左エ門という名を名乗るということと、自分らしさを発揮するということを、どうにかして両立させたいと考え、襲名についてはいろいろと悩みました。ちょうど、創業200周年を機会に新しいグループビジョンを策定しているところですが、新しいグループビジョンでは、ミツカングループらしさを打ち出したいと考えていました。自分も個性を発揮したいと考え、新しいグループビジョンも会社としての個性を打ち出したいと考えているならば、自分が襲名をして、会社としての個性を実現するリーダー、すなわち、歩くビジョンになればよいと考えるようになりました。ところで、今回の襲名では、自分で自分の名前をつけるという大変貴重な経験をさせてもらったと思っています。

―― 7代目から直々に「8代目を継ぐんだぞ」といわれたのはいつ頃だったんでしょうか。

わたしには男兄弟がわたしを含めて3人ありましたが、先代は男1人女3人の4人兄妹だったので「自分にはスペアはなかったが、子供にはスペアがたくさんある」と笑い話で話していたようです。わたしが当社に入社ししてしばらくして、先代が「8代目はおまえが継げ」と云ってくれましたが、「経営は別だぞ」ともいわれました。もしもわたしに経営者としての能力がなければ別のひとに経営は任せろといわれました。

◆中埜又左エ門和英社長の社会的な性格

中埜又左エ門和英社長の社会的な性格は、自分のおかれた環境の中でそれを材料にしながら、自分の目的をしっかりと定めて行動していく性格をしています。それにそれだけではなくて、意外にもパートナー型の性格をしていますから、オーナー社長にありがちな独断や専行というようなことはないと思います。ちゃんと相談すべきところは相談しながらというパートナーシップを持っているということです。
ここがいいところなのだと思います。

◆仕事数や人気数をみてみましょう。

仕事数や人気数は、やっぱりオーナー型の社長にふさわしく命令型です。自分がトップに立ってリーダーシップを発揮することが自分のつとめだと考えています。その分自分に対しても孤独な世界を持たなければならないということになりますが、そこをカバーしているのが社会的な性格であるパートナーシップということになります。

中埜又左エ門和英社長の場合は、老舗の暖簾を守りながら、代々の又左エ門が担ってきた事業に対する伝統をしっかりと受け継いでいくという決意がありますから、そこが一番のポイントになります。だからこそ、与えられた環境から逃げることなくその環境を積極的に利用するという、そして常に変革を求めてやまない先祖伝来の伝統が生きてくるということがいえます。

先祖の応援を受けることのできる姿勢が、見えない世界といえる世界のバランスをしっかりと取ることのできる経営へとつながっているといえるでしょう!

◆これからのミツカン

運命式的にみれば襲名ということが、ミツカンの伝統の重さと同時にミツカンを相続するという重大な先祖との契約行為ということになります。そこが、単に企業を受け継ぐというコットは意味が違うのです。
一般の企業が、有能な者を抜擢して社長として企業の存続を図っていくのと違って、襲名は見えない遺産をも引き継いで、それを現実化していくという先祖と現代のコラボレーションということがいえるのです。

―― 200年の歴史を有する企業のリーダーとしての思いがおありだと思いますが、襲名披露の時期に「変革と挑戦」を受け継ぐんだと口にされました。これをもう少し具体的にお話頂けますか。

変革と挑戦は、初代から7代目までが常に時代や環境の変化に合わせてやってきたことです。食酢は初代から今までやりつづけていますが、それはたまたまのことであり、食酢以外は時代や環境の変化に合わせていろいろなことに挑戦をして、そして、これも時代や環境の変化に合わせていろいろなことから撤退してきました。ミツカングループの企業理念のなかで永遠に守るべき二つの原点があります。「買う身になってまごころこめてよい品を」と「脚下照顧に基づく現状否認の実行」です。これは2つともどのようにやるのかを表したものであり、何をやるのかを表したものではありません。何をやるのか、あるいは、止めるのか、ということは、時代や環境の変化に合わせて、それぞれの又左エ門が意思決定をしてきました。これまで七人の又左エ門が各々自分が信じて意欲ある仕事を始め、あるいは見切りを付けてきちんきちんとやってきたから200年もやってこれたと思っています。

―― ご自身の個性を発揮し、ミツカングループの個性を発揮したい、ともいわれましたが、それはどのような道筋を経て築いていかれるおつもりでしょうか。
先ほどもお話ししましたように、現在、新しいグループビジョンを策定しているところです。来年の春先にはみなさんに発表できるように準備を進めています。新しいグループビジョンでは、ミツカングループらしさを打ち出していきたいと思っています。ミツカングループらしさとは、健康を軸とした商品や事業を展開していきたいということです。「ミツカン」というブランドは、お客様から健康によいと思われていますが、この強みをさらに尖らせていきたいと思っています。

 

■大山泰弘・日本理化学工業会長(2008年12月6日時点の記事)

●大山泰弘さん
1932年東京生まれ。56年中央大学法学部卒業、日本理化学工業入社。89年に社団法人全国重度障害者雇用事業所協会を設立、2003年まで会長を務めた。
知的障害者の雇用に取り組んで半世紀。チョーク製造大手の日本理化学工業(本社・川崎市高津区)には、全社員の7割を超す知的障害者が働く。経営姿勢を変えるきっかけになったのは、養護学校の先生が必死に訴えた一言だった。

■大山泰弘(おおやま・やすひろ)さん
日本理化学工業会長

■社員の7割超が知的障害者
1959年。養護学校の先生が卒業予定の少女2人の就職の依頼に来た。最初は取り合わなかったが、3度目の訪問で、「この子たちは、就職できないと親と離れて地方の施設で暮らすことになります。一生働くことを知らずに終わってしまいます。一度でも働く経験をさせてくれませんか」と。この一言が「今の自分を作りました」と、大山さんは振り返る。

 2週間にわたる実習期間中、2人は昼食の時間になっても手を休めることなく、懸命に汗を流した。心を動かされた従業員が、最終日に「我々が2人の面倒を見ますから」と懇願し、採用が決まった。

 75年には、同社の知的障害者の雇用率が50%を超えた。現在、本社と北海道美唄市の工場の全従業員74人のうち、54人が知的障害者(重度障害者は33人)だ。

 初めて採用された女性の一人は64歳になり、嘱託として接客などをこなす。96歳の母親と支え合って暮らしているのだという。

 能力に合わせて工程を考えた共生型の生産ラインは、誰が作業をしても同じ結果が出せるように工夫が施されている。機械を始動・停止させるタイミングを計るのには、砂時計が使われている。計量は、同じ色の原料を同じ色の容器に入れ、同じ色の重りと釣り合えば済むようにされている。製造ラインの知的障害者の比率は、9割を超える。

 禅僧に、「人の幸せは、人に愛されること、人にほめられること、人の役に立つこと、人に必要とされることです。愛されることを除くと、あとの3つは、社会で働くことによってこそ得られます」と教えられてから、働く場の拡大に開眼した。

 人脈をたどり、一時はカセットテープなどを生産し、大手オーディオメーカーに納入する仕事も請け負った。工程の環境を整えることで、品質の高い製品を生産できたという。現在は、粉の出ないチョーク、環境に配慮した白線引きの粉、プラスチック製品などを製造している。

 工場には、毎日、見学者が訪れる。案内役の大山さんは、「各持ち場でテキパキと作業をこなす姿に、心を動かされる人がいます。後日、激励の手紙も寄せられます」と話す。

 知的障害者の平均年齢は46歳。「仕事に没頭する彼らを見ていると、いろいろな人が働ける、もっと良い世の中を作って――という無言のメッセージが伝わってきます」と、気持ちを新たにしている。

(2008年11月7日 読売新聞)
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●経営姿勢を変えた一言・・・

「1959年。養護学校の先生が卒業予定の少女2人の就職の依頼に来た。最初は取り合わなかったが、3度目の訪問で、「この子たちは、就職できないと親と離れて地方の施設で暮らすことになります。一生働くことを知らずに終わってしまいます。一度でも働く経験をさせてくれませんか」と。この一言が「今の自分を作りました」と、大山さんは振り返る。
2週間にわたる実習期間中、2人は昼食の時間になっても手を休めることなく、懸命に汗を流した。心を動かされた従業員が、最終日に「我々が2人の面倒を見ますから」と懇願し、採用が決まった。」

◆たといどんな状況でも経営者は理性的に情報を判断しなければ生き残ることはできない。そんな厳しいビジネス環境で、障害者を受け入れるという決断をどうして下すことができたのか?

■大山泰弘さん
タイプ18-21:情熱的目的指向を中心として戦略的思考するタイプ

<大山泰弘さんの運命式>

11  6 16

 8 21 13

18 15 18

そこには大山泰弘さんの社会的な性格に原因がある。経営者にとって必要な資質とは何かというと、実は冷静な判断力と、現状の分析能力、戦略的な思考などいろいろとあるが、一番大切なことは何かというと「熱い想い」なのだ。

大山泰弘さんの運命式をみていくと、社会的な性格は戦略型の思考性と同時に目的型の強い情熱を持っていることが分かる。大山さんはとても熱い情熱的な人だったのである。これが経営の原動力となっている。
だからこそ、「人生粋に感ず!」ということになったのである。

◆目的と戦略が道を開いた

「能力に合わせて工程を考えた共生型の生産ラインは、誰が作業をしても同じ結果が出せるように工夫が施されている。機械を始動・停止させるタイミングを計るのには、砂時計が使われている。計量は、同じ色の原料を同じ色の容器に入れ、同じ色の重りと釣り合えば済むようにされている。製造ラインの知的障害者の比率は、9割を超える。
禅僧に、「人の幸せは、人に愛されること、人にほめられること、人の役に立つこと、人に必要とされることです。愛されることを除くと、あとの3つは、社会で働くことによってこそ得られます」と教えられてから、働く場の拡大に開眼した。」

それでは、何故知的障害者がほとんどなのに高い生産性を維持することができるのか?品質のレベルの高さをどうやって保つのか?普通であればそんな疑問がすぐに出てくる。でも、それは彼らや彼女らの働く姿勢を見れば分かるようになる。大山会長の運命式からもう一度みてみよう!

大山会長には二つの異なる側面を持っている。それは目的性を中心として、情熱と冷静で細やかな戦略性という二側面である。
それに仕事数はビジネスをしっかりとした形に仕上げる運勢を持っていて、見える形に実現します。また、人気数は人とのつながりにおいて、人はパートナーであることを知っていますから、そういう関係を築こうとします。

こういうように観ていきますと、大山会長は人に目標を絞って自分を考えていることが分かります。その企業理念の理想が、障害者で運用する企業ということになっていったのです。

<日本理化学工業の理念>
障がい者の雇用を通じて社会とジョイントし、楽しく美しい生活具の創造と、地域社会の人々から愛される企業へ

●働く幸せの像には次のように刻まれています。

『人に愛されること、
人にほめられること、
人の役にたつこと、
人から必要とされること、
の4つです。
働くことによって愛以外の三つの幸せは得られるのです』 と。
「その愛も一生懸命働くことによって得られるものだと思う」

 

■グリコの創業者・江崎利一(2013年4月15日の時点の記事)

●名経営者・江崎利一が生み出したグリコ

大都市のオフィスでおよそ9万社12万台が設置されている“オフィスグリコ”。お菓子が1つ100円で手軽に買える無人販売機だ。オフィスでの菓子需要を生み出した背景にはグリコのDNA・「創意工夫」の精神がある。実は創業者・江崎利一の人生こそが創意工夫にかけたものといえる。                           
江崎利一は佐賀県出身。地元・有明海の海で漁師からもらった牡蠣の煮汁に、グリコーゲンを発見し、グリコーゲンを入れたキャラメル菓子「グリコ」を開発。しかし当時、キャラメルといえば森永が国民的ブランドだった。そこで利一は森永に対抗し、様々な創意工夫を詰め込む。目立つ赤の箱、「一粒300メートル」のキャッチコピー、さらに子どもが遊べるおもちゃを付けるという大胆なアイディアなどなど。創業以来、脈々と受け継がれる創意工夫の精神がグリコの独創的商品を生み出している。
(カンブリア宮殿より)

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■事業は一日にしてならず

佐賀県神埼郡蓮池村(現佐賀市蓮池町)に生まれた。父は清七、母はタツといって江崎が生まれる二年前から薬種業を始めていた。ときには近在近郷を一軒ずつめぐり歩き、医療の相談相手もつとめていた。暮らしは貧しかった。長男だった江崎は家事の手伝いや弟妹の子守りに明けくれた。

1897年(明治30年)春、小学校高等科を卒業した。薬の商売のほかに朝食前の塩売りを始めた。1901年(明治34年)6月、父が亡くなった。弟妹をかかえた六人の家族の全責任を19歳の江崎が一身に背負う立場になって、以前にもまして商売に励んだ。登記代書業を始めた。

牡蠣(カキ)に含まれるグリコーゲンから「グリコーゲンの事業化」を思いついた。

アメの中に、牡蠣エキスからとったグリコーゲンを入れた試作品を、つぎつぎと作るようになった。
(ウィキペディアより)

★創業者に学ぶべきものは数多くあるのだが、その中でもこの江崎利一という人に学ぶものは?
運命式を見てみようと思う。
●江崎利一さん

タイプ15-26:きまじめで着実であると同時に、策戦的思考するタイプ

<江崎利一グリコ創業者の運命式>

18 17 25

 7 26 19

15  9 20

この運命式を見る限り、すごい個性とリーダーシップの持ち主というものは感じられません。
具体的な強さと主体性といった個性をこの運命式から見いだすことができないということです。

だから、この江崎利一という創業者が偉いと言えるのです。

どういうことかというと、特徴は「まじめ」「まじめ」「まじめ」といえるほどであることと「よく考える」「あきらめない」「成就する」

そういうことなのです。
このキーワードで手抜きをしないということ。ここがすごいのです。

実はまだ秘密がありました。
これを支えるには、江崎利一氏の心の内面の世界がすごいということです。

<江崎利一氏の流運>

22 18 21 19 13  9 21 19

17 15 18 23 17 15 18 23

なんだか数字の羅列で暗号みたいですが、これが江崎利一氏の心の中身なのです。

動機となっているのは、「成し遂げる」「戦略」「知恵・頭を使うこと」「人に対して情熱・主体性」

簡単にいえば、まじめでこつこつ努力する姿勢に、その内面は強い決意とエネルギーを持っているということです。

変わらない姿勢で臨む姿に、隠されたエンジンがあったということになるでしょう!

◆江崎語録が、創業者の生き方と運命式を物語っています。

★商売は2×2=5
人一倍努力と工夫を重ねれば、結果は当たり前の4以上になる。
★面倒なことやらんば商売は成功せんよ
  簡単にあきらめないで、工夫を重ねて粘り強く取り組むことが大切。
面倒なことの中にチャンスが隠れている。
★あさんたち、ニワトリとちがうか
  ニワトリがエサを食べるときは、ちょっと食べてはすぐ先へと進む。
足元をじっくりと固めていない。
★カニのように横にはってでも前進せよ
  大きな壁にぶつかっても、引き下がってはいけない。
壁に添って横に回ってでも、向こうに行き着くことを考えろ。
★頭は使うが心痛はしない
  物事を考えるときは、額や脇の下から脂汗が出るほど考える。
しかし、いつまでもくよくよせず気持ちをさっと切り替えることだ。

●・・・ひとこと・・・

ここでもビジネスの鉄則が読み取れる。「あきらめない」「成功するまでやり遂げる」「考える」
自分の運命式に素直であるということが、自分の運命を切り開くということになるのだろうと思う。

 

■フマキラーの創業者・大下大蔵さん(2013年3月8日時点の記事)

■ニッポンの蚊取り線香…ローラー作戦20年の執念!フマキラー

20年来の地道な挑戦を続け、アジアを攻略したのは殺虫剤大手のフマキラー。その“エリア集中作戦”で、世界最大の蚊取り線香市場インドネシアの勢力図を塗り替えている。フマキラーが目を付けたのは「ワルン」と呼ばれる家族経営の零細小売店。極小の店舗には、どんな商品でも1社の商品を置くスペースしかない。それだけにワルンさえ落とせれば、一気に商圏のトップに立てる。首都ジャカルタのあるジャワ島で150の郡を攻略目標に定め、営業担当者ら3人が車で1カ月1000軒ペースでワルンを訪問。このローラー作戦を地道に続ける中で市場を獲っていった。強力な蚊が生息し、殺虫剤は命を守るための商品といわれる東南アジアを攻略したフマキラーの執念。

■フマキラー創業者の大下大蔵

大下 大蔵(おおしも だいぞう、1894年3月27日 - 1979年11月6日)は、日本の実業家。フマキラー創業者。広島県安佐郡祇園町(現・広島市安佐南区祇園)出身。

1923年、殺虫剤「強力フマキラー液」を創製、翌1924年、祇園町に「大下回春堂」(現・フマキラー)を創業。同年専売特許に成功し、戦前までに国内のみならず欧米諸国にも市場を拡げ、上海に工場を設置するなど同社を躍進させた。戦後1950年、一子・俊治の社長就任で会長に退いた。

なお広島市の老舗百貨店・福屋や近年閉校された大下学園女子短期大学、大下学園祇園高校も一族の設立・経営であった。

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■創業者の運命式はちょっと違う!

フマキラーといえば、あのベープマットが思い浮かぶ。もっと古い人たちは、フマキラーといえば、やっぱり細長い筒を押し出すようにして噴霧する鉄製の機器を思い出す。薬剤くさいという特徴がすぐに浮かんでくる。
このフマキラーを一躍世界のフマキラーにした人物こそ、創業者の大下大蔵である。
戦前から戦後にかけて様々な企業が産声を上げたけれども、世界企業まで成長する企業というのはそんなに多くはない。

いずれにしても、この創業するということのエネルギーがどのくらいなものかということを運命式を見れば一目瞭然である。

★情熱と目的、エネルギー充満の経営者 大下大蔵さん

タイプ21-24:情熱的に目的集中すると同時に人の和、人の輪を作るタイプ

<大下大蔵会長の運命式>

21  6  9

18 24  6

21 18 21

大下大蔵会長の流運
15~30才  30~45才
21 18 15 15
21 21  9 15

大下会長の運命式からわかることは、創業者というのはこのくらいの情熱がないと起業できないのだろうなということである。
とにかく、全部に情熱的な目的指向なのである。人に対しても、愛情に対しても、自分自身に対してもである。
極端すぎるということである。だから、人は理解しないと思う。すべてに一途なのである。思いこんだらそれしかないという機関車みたいな人だ。

その大下会長の流運も凄い、ちょうどフマキラーを開発する29才までの年齢は、本体と同じくすさまじいエネルギーである。
だからこそ、新しいものを創造し、新しいことができるのである。

開発に成功してからは、着実に頭を使って伸ばしていきます。そういう動の時と静の時が交互に訪れます。うまく自分の生き方のリズムを企業の経営に生かしています。
でも、生涯情熱的であることには変わりありません。

●・・・ひとこと・・・

創業者が凄くても、2代目にうまく引き継がれなければ、企業というのは厳しい競争社会の中に埋没してしまいます。
その点では、いいバトンの渡し方をしています。
ちょうど59才で、自分の運勢の変わり目に一子である俊治氏に社長を譲っています。

創業と守勢がうまくかみ合わなければ、企業の存続はできませんからこういう選択と判断がしっかりとできるというところは、さすが歴戦の勇者といえると思います。

それに、大下回春堂という社名の運命式も大下会長の持っている運命式とマッチングしますから、運勢的にも力を発揮できたのではないかと思います。

 

リングアンドリンク・金丸信一さん(2010年5月12日の時点の記事)

●「不動産店、歯科医院のIT化を支援」を支援
金丸信一(かなまる・しんいち)さん

リングアンドリンク社長 光技術、精密機械製造などを主軸に、日本が誇る「ものづくり」の先端技術開発に取り組んでいるリングアンドリンク社(埼玉県所沢市)。2001年には不動産店のIT化をサポートするソフトを開発し、収益アップに導く経営支援を行うなど着実に実績を上げてきた。このノウハウを生かし、今年2月からは、歯科医院向けのITサポートシステムで経営支援に乗り出した。

同社は1986年の創業以来、大手メーカーや官公庁と組んで、光技術やセンサー技術の共同開発に取り組んできた。レーザー測定器、画像処理システムなどの開発に成功し、動脈硬化防止治療レーザーもその一つだ。社員数は90人ほどだが、大手企業からは「何でも出来る技術屋集団」と信望も厚い。

2001年には、街の不動産店向けの営業支援ソフト「@dream2000」を自社開発、ITによる不動産店の経営支援を始めた。きっかけは「当時、日本では難しいと言われた、ネット上のショッピングモールを成功させた『楽天』に対抗できるものは何か、自分なりに追求した結果だった」と、社長であり、技術者である金丸さんは振り返る。

90年代後半のITバブルを目の当たりにし、「自分たちはコツコツ真面目に製造業に取り組んでいるのに、なぜITというだけで株価がアップするのか」という釈然としない思いが強かった。だがそこで、「自分たちはものづくり企業としての強みを生かし、現場に役立つ技術を開発するしかない」という基本理念に立ち戻った。

さらに、「IT時代に我々が役立てる市場は何か」と考え、行き着いたのが「不動産業界」だった。当時、不動産店で自社のホームページを持っている店は珍しく、持っていても物件情報の更新を頻繁にしていなかった。

そこでまず、各店のホームページを作成し、物件情報をデータベースと連動させ、ワンタッチで自動更新できる仕組みにした。さらに、顧客から求められた設定条件と物件情報をマッチさせ、要求に合う情報をメールで即座に知らせるシステムを開発した。

このサービスは現在、47都道府県の1800店で導入されている。うち6県で地域売り上げ?bPになるなど、大幅な売上げアップを実現させる店が続出している。

「ネットで成功すれば、今まで使っていた広告費を削減でき、オフィスも駅のそばに構える必要はない。生産性が向上し、収益が増せば、財政基盤も強化される。その結果、きちんとした事業計画も作れ、新しい挑戦もできる」

今回、この経験とノウハウをベースに歯科医院向けの経営支援システム「@ドリームハート」(http://at-dreamheart.jp/)の販売を始めた。「事業開始当初から、ゆくゆく歯科医院は大集客合戦、過当競争の時代に突入し、きちんとした経営戦略が大切になると予測していた」。

金丸さんによると、全国の歯科医院数は約6万8000とコンビニ店を上回る。少子高齢化を迎えて、今後、経営が立ちゆかなくなる歯科医院も出てくることが予想される。

医師法によって広告宣伝が禁止されている医療界で、唯一許されているのがホームページ。金丸さんはこの点に目をつけた。

サービスは、通院患者向けに、予約の確認メールや定期健診の案内メール、さらにインプラント情報など、患者のニーズを先回りしてメールで自動発信するもの。これによって当日のキャンセルや治療途中での中断を減らし、リピート率の向上、クチコミによる新規顧客の獲得などを目指す。さらに、システム導入企業のアフターケアとして、院長向けの経営セミナーも開催する。

「必ずしも皆がもうかっているとはいえない歯科医院に、経営の視点を取り入れ、収益をアップして幸せになってほしいというのが、我々の願いです」。

光技術とITサービス。一見、異なる事業領域に思えるが、「どちらも顧客企業の生産性を向上し、効率をアップするのに役立つ『設備』です」と言い切る。

金丸さんは、「システムを導入してくださった企業から『過去最高益でした』と喜ばれた時、仕事の達成感を感じます。不動産店、歯科医院ともに、経営戦略をサポートをするのが私たちの使命。お客様からの感謝の気持ちは原動力になります」と話している。

(2010年4月16日 読売新聞)
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■成功の秘訣は運命式にあり

「「IT時代に我々が役立てる市場は何か」と考え、行き着いたのが「不動産業界」だった。当時、不動産店で自社のホームページを持っている店は珍しく、持っていても物件情報の更新を頻繁にしていなかった。ネットで成功すれば、今まで使っていた広告費を削減でき、オフィスも駅のそばに構える必要はない。生産性が向上し、収益が増せば、財政基盤も強化される。その結果、きちんとした事業計画も作れ、新しい挑戦もできる」

多くの起業家にとって重要なことは、自分の持つアイデアをどうやって現実化するかということである。そこには、数多くのハードルが潜んでいる。その一つ一つを解決する努力と収益が効果的であるかどうかということが課題になるのだ。
どんなに優れたアイデアでも、それが営業というふるいにかけられたときには、それが色あせてしまうことがある。サンクスコストということがある。どんなにお金をかけて進めてきても、それが将来的に負担になるようなら、途中で撤退すべきということなのである。起業する中ではそんなことは沢山ある。

何故、金丸信一社長は成功できたのだろうか?
その秘密は、運命式のバランスにあるということだ。
そこで、金丸社長の運命式を見てみましょう!

★金丸信一さんの運命式をみてみよう!

タイプ18-21:情熱的目的指向を中心として戦略的思考するタイプ

<金丸信一さんの運命式>

12 11 20

 9 21 12

18 10 13

先ず起業するということで一番重要なことは、現実の競争社会の中でどうすれば差別化を図った事業を展開できるかということになる。

そういう点では、金丸さんの仕事数はアイデア創造型になっているので、仕事に対する視点が普通の人とは少し違うということだろう!この感性が大きな成果の原因の一つとなっている。

ただ、それだけではない。バランスということが大事だ。
起業するというのは、「成功するまでやり続ける」ということが重要である。こういう熱意の持続性が必要になる。その点では、金丸さんは情熱的目的指向の性格を持っているから、とにかく一途である。

それだけでは意味がない。がむしゃらだけで成功できるほどビジネスは甘くはない。市場調査、マーケティング、戦略や作戦といったことが時にかなっていなければならない。それに人間関係だ。ここで人望を失えばこれも意味がなくなる。
ということで、金丸社長には、そういうちょっとしたところのバランスが人より優れているということなのだ。そこが事業として成立させているという理由にもなっている。

●・・・ひとこと・・・

運命式のバランスが良ければすべてうまくいくかというと、そうばかりではない。何か大きな特徴があれば、それがエネルギーになるということもある。求心力があれば、人のエネルギーを集めることも可能だ。人それぞれの戦い方がある。それをやり遂げるかどうかが鍵なのかもしれない。

 

●里山とインデックス投信(2010年5月13日の時点の記事)

加藤 隆(かとう・たかし)さん

バンガード・インベストメンツ・ジャパン代表取締役
1977年東京銀行に入行。その後、インターセック・リサーチ、シュローダー・インベストメント、ABNアムロに勤務。その間、ファンドマネジャー、コンサルタント、営業担当役員、日本支社代表などを歴任。2005年にバンガード・インベストメンツ・ジャパン(東京都渋谷区)に入社、代表取締役に。 銀行で資産運用という「やりがいのある仕事」に巡り合って以来、一貫して同業界で活躍。現在はバンガード・インベストメンツ・ジャパンで、投資信託の普及に尽力する。一方で、古民家再生プロジェクトや里山の再生活動にもかかわるなど、持続可能な暮らしへの関心も高い。「里山ライフとバンガードの精神は通じる」と話す加藤さんに、これまでのキャリアについて聞いた。

「汎用性があり、国際的な仕事がしたい」と、国際金融への関心から1977年、唯一の外国為替専門銀行だった東京銀行へ入行。入社7年目に本部でアセットマネジメント業務を推進する担当者に抜擢(ばってき)される。これが加藤さんにとっての転機になった。

「今後、資産の運用は大切になってくるし、仕事としても面白い。また、この分野に取り組んでいる人も少なく、これから求められる」ことを確信。イギリスの会社との合弁で、当時の日本ではまだ珍しかった資産運用ビジネスの育成と斡旋(あっせん)にあたった。87年にロンドンに赴任してから3年間は、海外債券のファンドマネジャーとして活躍した。

90年には、13年間働いた東京銀行を退職し、アメリカ系のコンサルタント会社に転職した。アセットマネジメント業界に特化した総勢40人ほどの小さな会社の駐日代表だった。「上司や友人からは『なぜそんな小さな会社に行くのか』と不思議がられましたが、今後、必ず必要とされる仕事」と決断。迷いはなかった。その後も、外資系の投資顧問会社でキャリアを積んだ。

金融業界の一線で働きながら、里山や古民家など、伝統的な日本の暮らしに関心を持ち始めたのは、ロンドンから帰国した90年頃。その後バブルがはじけ、それまで世界を牽引(けんいん)してきたジャパンマネーが急速に力を失い、「世界中から日本が揶揄(やゆ)され、多くの日本のビジネスマンたちが自国に対する誇りをしぼませていた」ことが気にかかった。

その誇りを取り戻すためにも「日本の伝統的な生活文化をもう一度見直す必要がある」と、たどり着いたのが里山や古民家の再生運動だった。2003年から2年ほど、金融業界を離れ、里山暮らしを普及するための自然農の講座を開いたり、日本の住文化を見直そうと、日本民家再生リサイクル協会の理事も経験した。日本古来の木の文化を維持しようと、長野県伊那市の建具職人の昔ながらの技術で作る家具をネットで販売するなどのビジネスも手がけた。

「企業年金の運用体制がある程度日本で整備され、自分なりにこの事業に貢献できたという達成感があったのだと思います。けれど、里山文化復興の事業化は難しかった」と話す。

05年、バンガード・インベストメンツ・ジャパンに出合った。「自分の生活信条に合っている会社で、ラッキーだった」と振り返る。「バンガードでは、短期的な視点で頻繁に売り買いせず、手数料を安く抑え、長く運用することが投資家にとって好ましいと提唱しています。本来、個人の資産形成に投機的なマネーゲームは禁物です」という。

現在、バンガードの主力商品である「インデックス投信」は、例えば、日経平均などの市場インデックスに連動する投信で、低コスト、長期投資が特徴だ。「自然と共に生態系の中で循環的に生活する里山生活の精神と、マーケットと共に持続可能なレベルで投資成果を享受するバンガードの精神は、通じるものがある」と加藤さん。

これまで転職を重ねる上で、常に頭にあったのは「そのビジネスは世の中に必要とされているかどうか」。その確信さえあれば、リスクを過度に懸念する必要はないと言い切る。

若い人々には、「これまでの経験から、人生に努力は不可欠だが、結果はほとんどが『運』。何をやっても、成功するか失敗するかはあらかじめ分からないので、自分が信じるものに向かってチャレンジしてほしい」とアドバイスしている。

(2010年4月13日 読売新聞)
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■銀行マンという堅さや原則性と人のつながりの間で

「金融業界の一線で働きながら、里山や古民家など、伝統的な日本の暮らしに関心を持ち始めたのは、ロンドンから帰国した90年頃。その後バブルがはじけ、それまで世界を牽引(けんいん)してきたジャパンマネーが急速に力を失い、「世界中から日本が揶揄(やゆ)され、多くの日本のビジネスマンたちが自国に対する誇りをしぼませていた」ことが気にかかった。

その誇りを取り戻すためにも「日本の伝統的な生活文化をもう一度見直す必要がある」と、たどり着いたのが里山や古民家の再生運動だった。2003年から2年ほど、金融業界を離れ、里山暮らしを普及するための自然農の講座を開いたり、日本の住文化を見直そうと、日本民家再生リサイクル協会の理事も経験した。日本古来の木の文化を維持しようと、長野県伊那市の建具職人の昔ながらの技術で作る家具をネットで販売するなどのビジネスも手がけた。」

加藤さんが銀行マンを選んだというのは、運命式的には正解である。というのは、原則性や価値観をしっかりと持っていなければならない仕事だからだ。また、いろいろと考えたり作戦を練ったり、自分の内面を見つめた利など内面的な面も持っている。

そういう加藤さんが自分の人生を見つけたのも銀行という仕事の中だ。そこで、この加藤さんが金融という仕事を通しながら、なぜ古民家などに興味を持つようになったのかということを、運命式で考えてみようと思う。

★加藤 隆さんの運命式をみてみよう!

タイプ17-35:自分に対する結果や形、スタイルを中心として、策戦的に思考するタイプ

<加藤 隆さんの運命式>

24 23 34

 6 35 29

17 12 30

加藤さんの運命式をみておもしろいことは、自分の中で全く異なる世界を同居させながら、それを矛盾しないようにうまくまとめているということです。
どういうことかというと、原則性や価値観などという堅い世界を持ちながら、仕事や人間関係などは人間的なつながりを大切にします。

堅さと柔らかさを内包しながら、そのバランスをとってるところがこの運命式の凄いところです。そのポイントは物事を内面的に考えるまじめな思考ができるところです。
それと同時に、仕事の中から自分の価値観を探していったということがいえます。どんな人生観を持つかということは、加藤さんにとってはどんな仕事観を持つかということに等しいからです。

ここで古民家再生というプロジェクトを見つけたということが、仕事と人生という価値観を一致させたのです。それは、普通ではあまりあわない組み合わせが一つの事業の中で融合したということです。

だから、こういうケースもありということです。運命式的に少しあわないところでも、選ぶ業種によっては自分の運命式をその中で昇華できるというケースもあるのです。

●・・・ひとこと・・・

自分の運命式をどんな風に活用するかということでは、どんな仕事、どんな業種を選ぶかということも重要な要素です。それらは自分の選択した仕事の中から自分が学び、その中から自分のミッションを捜さなければならないということです。でも、求めていれば、運命式が自分を導いてくれるということもあります。

 

● 雇用格差ない仕組みを(2010年5月15日の時点の記事)

南部 靖之(なんぶ・やすゆき)さん
パソナグループ代表

1952年兵庫県生まれ。76年関西大学工学部卒。大学卒業の1か月前に「家庭の主婦の再就職を応援したい」と起業し、現在のパソナグループを設立した。総合人材サービス業として成長を遂げるとともに、雇用創造をテーマに労働市場と向き合ってきた。先月、竹中平蔵氏との共編「これから『働き方』はどうなるのか」(PHP研究所)を出版した。 

パソナグループ代表の南部靖之さんは、失業など現在の雇用を巡る問題は「日本社会の構造変化に問題の本質があり、個人の働き方や生き方そのものを見直す時期にある」と語る。個人の人生設計に合わせた働き方ができる社会を目指すべきで、そのためには個人と社会全体の意識転換が必要だとも言う。「これからの働き方」について、南部さんに聞いた。

「働くこと」は、社会で自分を表現する方法であり、生涯の仕組みづくりです。働くことを簡単にあきらめてはいけません。働く「個人」について、もっと真剣に論議されるべきだと思います。第一が個人の幸せです。みんなが幸せになれるように、働き方の価値観に多様性を持たせることが大切です。

もっと多様で自由な働き方が認められ、それぞれの生き方が尊重されるべきです。年齢や性別に関係なく、個人のライフスタイルに合わせた働き方が選択できるような社会に向けて、基盤づくりが必要です。

現在の日本は、企業に属していることを前提に社会基盤が設計されており、正社員でなければ享受できないものが少なくありません。雇用や教育、社会保障まで、すべてを企業に頼っていては、最終的に困るのは働く個人です。「企業依存」ではなく、個人が自立した社会への転換が必要です。

高失業率問題を克服したオランダでは、フルタイムでもパートタイムでも雇用形態に関係なく、「同一労働・同一賃金」を実現させ、双方の働き方の移行も円滑にできるようにしました。働く人全体の社会保障や職業訓練も充実させています。柔軟な雇用システムによって企業の経営効率が上がり、働く人は多様な就労形態と、より自由な労働時間の選択が可能になったのです。

一方、日本では、政府が労働者派遣法の見直しを進めていますが、登録型派遣や製造業派遣を禁止するのは国際的な流れと逆行した動きだと思います。規制を強化するのではなく、雇用形態にかかわらず賃金などの処遇で格差のない仕組みづくりが必要です。

働くことは、どのような仕事を選び、どのような人生を送るかであり、生き方そのものです。目指すのは、誰もが個人の夢や環境に合わせて自由に働き方を選ぶことができ、自信と誇りを持って働くことができる社会です。働くことで人生の豊かさを感じられる仕組みを作って実践していきたい。それが創業以来、雇用創造を掲げている企業のトップである私の使命だと思っています。(談)

(2010年4月6日 読売新聞)
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■一言居士で自分が音頭を取らないといけない人

「「働くこと」は、社会で自分を表現する方法であり、生涯の仕組みづくりです。働くことを簡単にあきらめてはいけません。働く「個人」について、もっと真剣に論議されるべきだと思います。第一が個人の幸せです。みんなが幸せになれるように、働き方の価値観に多様性を持たせることが大切です。
もっと多様で自由な働き方が認められ、それぞれの生き方が尊重されるべきです。年齢や性別に関係なく、個人のライフスタイルに合わせた働き方が選択できるような社会に向けて、基盤づくりが必要です。」

学生時代から起業をしたというから、その旺盛な精神は起業後もますます発揮されているといっていい。何かを始めるというのは、相当なエネルギーが必要だ。それに、様々な雑務もこなさなければならない。

そんなものは誰かに任せればというかもしれないが、起業して上手く軌道に乗るまでは単なる運ではない。
相当な持続性のある努力が必要になるということだ。

それでは、南部さんのそんな信念や力はどこから来たのかを考えてみましょう
運命式の中にそのひもとく鍵を見つけたいと思います。

★南部靖之さんの運命式をみてみよう!

タイプ25-36:自分に対する結果や形、スタイルを中心として、知識や情報を元に知的に気配りするタイプ

<南部靖之さんの運命式>

23 20 33

12 36 24

25 16 27

南部靖之さんの運命式を見てみると、「家庭の主婦の再就職を応援する」という雇用問題をテーマにした起業は、南部さんの運命式にあっているといえる。
何が会っているかというと、学生時代に起業したように南部さんの運命式は、なかなかの理屈屋だ。それに、知的で気配り型の細かさも持っている。
おまけに生真面目である。

ところがこのくらいならばどこにでもいるといえるが、どこにでもないところがある。それは、何をやるにしても、絶対に自分が一番でなければならない。ということなのである。

要するに理にかなっていて、知的な要素がいっぱいで、尚かつそこで自分が一番にならなければならないというわけである。そうなると、もう社長になるしか道がないというわけである。だから、人に頭をさげて使われるというわけにはいかなくなる。

でもやっぱり自分に理がなければならないというのが基本である。
そう考えていくと、この雇用問題をテーマにした起業というのは、実に南部さんらしい選択ということになる。
以下に彼の人生観の端緒が見えていると思います。

「働くことは、どのような仕事を選び、どのような人生を送るかであり、生き方そのものです。目指すのは、誰もが個人の夢や環境に合わせて自由に働き方を選ぶことができ、自信と誇りを持って働くことができる社会です。働くことで人生の豊かさを感じられる仕組みを作って実践していきたい。それが創業以来、雇用創造を掲げている企業のトップである私の使命だと思っています。」

●・・・ひとこと・・・

人が職業や仕事を選んでいるようでも、実は知らない間に運命式が仕事や職業を選んでいるのではないかと思う。だから、成功するには自分の持っている内容とマッチングする仕事や職業を選択することが成功への道のりということがいえる。そのところが欲望を抑えた現実的な選択ということになる。

 

●創造性豊かな化学に夢(2009年10月24日の時点の記事)

多田 正世(ただ・まさよ)さん
大日本住友製薬社長
1945年生まれ。大阪府出身。68年東京大学経済学部卒業、住友化学工業(現・住友化学)入社。取締役、常務、常務執行役員などを歴任。2005年に住友製薬に移り、大日本製薬との合併後、専務執行役員、副社長を経て08年6月から代表取締役社長。

 大日本住友製薬は2009年を海外展開の最重要年と位置付け、アメリカでは自社の営業部隊による販売網構築を目指している。「違う世界に触れることが、組織の活性化につながる」と語る多田さん。土台となっているのは、米国で会社を設立した経験だ。

■違った世界で脳に刺激

 アメリカでは現在、戦略製品と位置付けるルラシドン(統合失調症治療剤)の臨床試験が最終段階にあり、自社での販売体制作りの準備を進めています。今後、さらにグローバル化のスピードを上げていきます。社員にも、海外を含めて違った世界を経験してほしいと思っています。

 違う世界に触れると、脳に対する刺激になります。例えば、営業担当者が本社で違う仕事をしたり、研究者が開発の仕事をしたりというように、自分が経験していなかった分野の仕事をすると、自分を磨き直すことができます。社長に就任してから1年余りですが、役員はほぼ全員、担当を変えました。半年ほどは戸惑いがあったようでしたが、今は会社組織全体の活性化につながっていると考えています。

 転勤も同じです。私自身、国内外で10回ほど転勤しました。転勤先で受け入れてもらうために、どのように自分を変えるか。その過程で、社会的動物としてのスキルが蓄積されていくと思います。仕事は一人では出来ません。コミュニケーションが大切です。

■米国経験が基礎築く

 住友化学時代、アメリカで4年間、米国の石油会社と折半で農薬の子会社設立にかかわりました。社員は米側から200人、日本から10人。一つの組織で一緒に仕事をしました。当時40代でしたが、この経験が現在の私の基礎になっています。

 私は仕事について、「1から5まであれば、すべて大事だから一生懸命にする」という考えで進めていましたが、アメリカ人社員の一人から「1から5まで優先順をつけてほしい」と言われました。違った文化、価値観の存在を突きつけられたのです。

 その会社は最終的に、米国の石油会社が撤退して住友化学の完全子会社になりましたが、その際、米社から出向していたアメリカ人社員のほとんどが移籍に応じてくれました。

 事業存続に向けて毎晩、アメリカ人一人一人に説得を試みました。当時の私の担当は企画マーケティングでしたが、人事・労務部長のようでした。その過程で、違った価値観を理解した上で、こちらが相手に心を開いていけば、必ず気持ちが通じると実感しました。

 化学は「無」から「有」をつくります。「産業の中で最も創造性が豊かな事業では」と考えて、就職先に化学メーカーを選びました。化学反応は目に見えません。目に見えないことを評価して新しいものをつくっています。自分は研究者ではありませんが、もっと何かできるのではないかという夢を持っています。

 人間の生体も解明されていない部分の方が多いです。脳の中で一体、何が起こっているのか。どのメカニズムが作用するのか。アメリカで販売を予定している「ルラシドン」の挑戦も、脳の分野だから決断することができました。脳の世界ではまだまだ、意外なものが意外な効果を持つと思っています。(談)

■<メモ>大日本住友製薬
1897年設立の旧大日本製薬と住友化学グループの旧住友製薬が合併し、2005年10月に誕生。本社・大阪市。社員数4646人(09年3月末現在)。09年3月期の連結売上高は2640億3700万円。

(2009年8月12日 読売新聞)

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■トップリーダーになる人は運命式に特徴がある

「アメリカでは現在、戦略製品と位置付けるルラシドン(統合失調症治療剤)の臨床試験が最終段階にあり、自社での販売体制作りの準備を進めています。今後、さらにグローバル化のスピードを上げていきます。社員にも、海外を含めて違った世界を経験してほしいと思っています。」

 このように語る大日本住友製薬の多田社長はリーダーになるだけあってちょっと特徴的な運命式を持っている。
とかく私たちは平凡であってもいい人生をと願うのであるが、トップに立つということはただ能力的に優れていればいいというだけではない。
そのことを運命式から観てみよう!

★多田 正世さんの運命式をみてみよう!

タイプ16-21:情熱的目的指向を持ちながら自分の結果や形、スタイルにこだわりを持つタイプ

<多田 正世さん(64)の運命式>

16 11 16

11 21 10

16 10 15

<多田 正世さん(64)の流運>

21 20 7 7 21 20 7 7

20 20 7 6 20 20 7 6

多田 正世さんの運命式をみると、ちょっと違うことが分かる。
それは、すごいまじめであること。それから、情熱がすごい。全く一途に進んでいくところもすごい。やり出したら、成果が上がるまでやり遂げるというところもすごい。
簡単にいえば、中途半端ではないということになる。

こういう人だからこそ大企業のトップになって、みんなを一つの方向へ持っていくことができるのかも知れない。リーダーの一番の資質は、「ぶれない」ということだ。
リーダーが揺れていては会社全体が揺れてしまうことになる。
これだけはっきりして、しかもきっちりと成果を上げることができる人は皆から信頼を受けることになる。

それに、流運は面白い展開をしている。何故ならば、アイデアをいっぱい出しながら情熱的な人間関係を築くとき。そして次のステージはものごとの結果をちゃんと出していくステージと、バランスが著土いい具合に展開していくのである。こういう運勢の流れを持っていることも持って生まれた強運といってもいいかもしれない。

企業は人なりということになるが、運勢のある企業はトップにいい人を選ぶということだ。またそういう力を持っているということがいえる。

●・・・ひとこと・・・

普通は運命式には良いところも悪いところもあって、そのバランスが問われるのであるが、やはりトップリーダーというのは、そういうバランスではなくそれらを突き抜けてしまう強い特徴を持っている。その特徴が個性でもあるが、それらをサポートする数字も配置されているから不思議なものだ。だからこそリーダーがつとまるのかも知れない。

 

■夢の街創造委員会社長(2007年3月17日時点の記事)

●月給10万、アナログ営業・中村利江さん

「週の前半は大阪、後半は東京という生活。家では仕事の話は一切しません」
1964年富山県高岡市生まれ、関西大学文学部卒。大阪在住。宅配サイト「出前館」(http://demae-can.com)を運営する会社「夢の街創造委員会」を社長就任3年で黒字化。
「あなたが社長の方がいい」。前社長からそう言われて引き継いだとき、家族も友人も、全員が大反対だった。

 社員約30人の「夢の街創造委員会」は、パソコンなどから出前を注文する宅配サイト「出前館」を運営する会社だ。コンサルタントとしてかかわっていたが、当時、累積赤字が3億円近く。倒産寸前だった。

 「ちゃんとやればうまくいく、という確信はあったんです」。だが、具体的な見通しがあるわけではなかった。社内に反発もあった。「何も分からない人が来た」。そんな声も聞こえてきた。

 「行動で示すしかない。人の嫌がることを率先してやってみよう、と思いました」

 社長になって、自分の月給を10万円と決めた。社内最低だ。「赤字で給料がもらえないのは当たり前。社員にプレッシャーをかけたかったんです」。月給10万は黒字が見えてくるまで2年間続く。家族には内証。貯金を切り崩しながらの生活が始まった。

 朝は誰よりも早く出社して、社内をきれいに掃除した。「営業の約束が取れない」という社員がいると、自分で電話をかけて取ってみせた。

 インターネットを使ったデジタルのビジネスも、業績を伸ばす方法は、徹底的にアナログだった。メールで注文が来ても店が気付かない問題は、注文内容をファクスに変換して店に送ることで解決した。せっかくメールでやり取り出来るのにファクスは無駄なようだが、注文を確実に届けたいと思った。

 加盟してくれた店のチラシを自分たちで作り、先頭に立って配って歩いた。加盟すれば注文が増える、という実績を作りたかった。「やれることはすべてやった」

 効果は徐々に出始めた。黒字に転じたのは2005年。社長就任から3年後だった。200~300だった「出前館」の加盟店は今や6000を超えた。今年8月期の売り上げ予想は約9億円。社員は当初とほぼ全員が入れ替わった。

学生起業家の先駆
中村が最初に注目されたのは、大学1年生のころだ。友人たちと「女子大生が電話で起こす」モーニングコール事業を始めた。学生起業家の先駆けだった。当時から、とにかく何か新しいことがやりたかった。その後、リクルートに入社して営業を学ぶ。出産のため退社しても、すぐに仕事がやりたくなった。

 「ほっかほっか亭」を運営する会社ハークスレイで「ほか弁の出前」を企画していて、「出前館」に出合った。「これは将来伸びる」。そう信じたときから、社長になる運命だったのかも知れない。

 「当面は出前館を大きくするのが目標。でも、新しいビジネスもどんどんやっていきたい」。“起業家魂”は、社長になった今も変わらない。

中村利江チャレンジし続ける3か条

①クレームは宝の山
②一歩でも毎日進む
③失敗の後に成功

http://job.goo.ne.jp/topics/special/iketeru/002.html
(敬称略)
読売オンラインジョブサーチ

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◆出前館というデリバリーサイトを運営して、わずか3年で3億の赤字会
社を黒字に転換させた中村利江はどんな人なのか?
それを占い運命式にみてみようと思う。
女性経営者で、これだけの活躍をするというのもそれだけすごいやり手なのかというと、そんなに男みたいな運命式をしているかというと、なかなかそうでもないのだから面白い。
行動派で、何でも自分で率先してやってみる。そういうエネルギーはどこから来るのか?そういうところを運命式的に見るのもなかなか学びになる。

中村利江さん(39)の運命式を出してみよう!

タイプ17-24:自分に対する結果や形、スタイルを中心として、人の和と人の輪を作るタイプ

<中村利江さん(39)の運命式>

17 11 18 25 19
10 24 14
17 13 20 18 19

”「あなたが社長の方がいい」。前社長からそう言われて引き継いだとき、家族も友人も、全員が大反対だった。”

こういわれて、社長になってしまった中村さんですが、そんなエネルギーはどこにあったのでしょうか?
一つは、自分のこだわりがあったのでしょう!どういうことかというと、どんなことにも流れというものがあります。ただ突然にひらめいたから事業をやります。などというような単発的なことでうまくいくはずがありません。

そこには、デリバリーについて研究して調査を真剣にやってきたからこその自信があるはずです。そういうことを自分の中で築いて自分の信念にしてきている生き方があるのです。そういう猿人をもっていると言っていいでしょう!

しかし、赤字3億円は半端じゃありません。
「行動で示すしかない。人の嫌がることを率先してやってみよう、と思いました」という考え方が基本の価値観としてもっていたのが中村利江さんなのです。
富山県高岡生まれで「夢の街創造委員会」という会社を経営している。学生時代から「モーニングコール」事業を考え出すなど、学生企業家のはしりとなった。考えることの好きな仕事運をもっている。

もう一つ社長としての資質は、みんなをまとめる力量がなければならない。
社員が皆一つになってこそ、会社全体に力が出るのである。そういうことを考えると、中村利江さんには人の和とグループ化、組織化をすることのできる力を持っている。

”社長になって、自分の月給を10万円と決めた。社内最低だ。「赤字で給料がもらえないのは当たり前。社員にプレッシャーをかけたかったんです」。月給10万は黒字が見えてくるまで2年間続く。家族には内証。貯金を切り崩しながらの生活が始まった。朝は誰よりも早く出社して、社内をきれいに掃除した。「営業の約束が取れない」という社員がいると、自分で電話をかけて取ってみせた。”
こういう社内方針も、中村利江さんの性格から由来しているところが大きい。それに、人気運もそのようにちゃんとした付き合いを求めるのだ。それが社員に対しても私がこうだから、あなた方もこうあるべきだという主張する。そういう堅いところがあるのだ。

だから、それに合わない社員は結局ついていくことはできなくなる。それはそれで良いとわりきっていいるはずだ。

変化の激しいインターネット事業では、単に自分のポリシーだけでは乗り切れない。そこには仕事に対する深い考えがなければ続かないはずだ。そういう考える仕事に対する姿勢を中村利江さんはもっている。

 

海外で大赤字、今や収益の柱(2007年6月7日の時点の記事)

●茂木友三郎(もぎ・ゆうざぶろう)さん

キッコーマン会長
1935年生まれ。58年キッコーマン入社。95年社長。2004年会長。中央教育審議会副会長、新しい日本をつくる国民会議の共同代表なども務める。
「米国では、“良き企業市民”として絶えず社会に貢献することの大切さを、改めて学んだ」=多田貫司撮影
キッコーマンが米国でしょうゆ販売を始めて今年で50年。今では海外事業が収益の柱となった。その原点となるのが、1973年の米ウィスコンシン州への工場進出だ。

地元は猛反対
茂木は当時、海外事業部員として中心的な仕事にあたった。入社後の60年ごろ、米コロンビア大に留学した経験を買われてのことだ。

 留学生時代、現地のスーパーでしょうゆの販売を手伝ったことがある。しょうゆで味付けした肉を試食してもらうと、多くの人に喜ばれた。その時、「米国でも必ずしょうゆは広く受け入れられる」と感じた。さらに「現地に工場を作れば、輸出より輸送費も少ない」とも思った。

 提案が会社に受け入れられ71年、米国への工場建設が決まった。当時、まだ海外に工場を持つ日本企業はほとんどなかった。建設予定地の地元の農家たちは、「環境が破壊される」と猛反対。茂木は地元団体や農家に何度も足を運び、懸命に説得した。

 住民の同意を得て73年に工場は操業を開始。すると、次は別の苦難が待っていた。

 同年秋の石油危機で、しょうゆの原料となる穀物価格も急騰。米国事業は予想外の大赤字になった。米国工場への初期投資額は、当時のキッコーマンの資本金とほぼ同じという大きさ。失敗すれば会社の存続さえ危ぶまれる。

 茂木への風当たりも強くなった。74年初めには体調を崩し、急性肺炎で一月半も入院した。「会社を辞めなくてはいけないかな」。病床では弱気な考えも頭をよぎった。

 しかし、75年になると急に売り上げが伸びた。販路を広げたことが実を結んだ。「日本と同じ味のしょうゆを作る」とこだわった品質も認められた。76年には過去の赤字がすべて帳消しになった。

 現在、しょうゆは世界中に広まり、「キッコーマン」がしょうゆの代名詞ともなった。「米国でゼロから始めたチャレンジ精神が、今も原動力になっている」と語る。

あえて困難に挑む
  茂木は95年に社長に就任した後も挑戦を続ける。つゆやたれなど「しょうゆ関連調味料」への本格参入がそれだ。

 国内のしょうゆ市場は頭打ち。スーパーの安売り合戦もあり、「しょうゆだけで今まで通りの利益を出すのは難しい」と考えた。つゆやたれなら今後、需要増が見込める。

 「しょうゆこそ本業」と、社内には異論も出た。それでも「挑戦を続ける海外事業に比べ、国内事業はおとなしすぎる」と、茂木は社内の反対を押し切った。現在、売り上げは順調に伸びている。

 茂木は本業のほか、他企業の社外取締役や国の審議会の委員などの要職も数多くこなす。息つく間もない忙しさだ。そこには、「あえて難しいことに挑むことが成長につながる」との信念がある。

挑戦3か条
①人まねはするな
安易に他人の○○はしない。絶えず新たなことに取り組んでいこう。

②困難を避けるな
あえて難しい道を選ぼう。苦労した分だけその後の成長が期待できる。

③リスクを恐れるな
生産や○○などの現場の一人一人が攻めの姿勢で挑む企業体質作りが重要だ。
(2007年1月31日 読売新聞)

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◆キャリアを積んで、それをうまく生かすことで自分の運勢の波に乗る。

入社後の60年ごろ、米コロンビア大に留学した経験がある。
留学生時代、現地のスーパーでしょうゆの販売を手伝ったことがある。しょうゆで味付けした肉を試食してもらうと、多くの人に喜ばれた。その時、「米国でも必ずしょうゆは広く受け入れられる」と感じた。さらに「現地に工場を作れば、輸出より輸送費も少ない」とも思った。

 提案が会社に受け入れられ71年、(36才位)米国への工場建設が決まった。当時、まだ海外に工場を持つ日本企業はほとんどなかった。建設予定地の地元の農家たちは、「環境が破壊される」と猛反対。茂木は地元団体や農家に何度も足を運び、懸命に説得した。

 住民の同意を得て73年(38才位)に工場は操業を開始。すると、次は別の苦難が待っていた。

茂木友三郎(もぎ・ゆうざぶろう)さんの運命式を出してみよう!

タイプ24-28:人情的な人のつながりの中で、策戦的思考するタイプ

<茂木友三郎(もぎ・ゆうざぶろう)さんの運命式>

24 12 19

20 28 11

24 16 20

13  9 18 22 22 18 18 22
14  9 18 23 23 18 18 23

渡辺正太郎さんの経営の考え方は次のようである。

★挑戦3か条
①人まねはするな
安易に他人の○○はしない。絶えず新たなことに取り組んでいこう。

②困難を避けるな
あえて難しい道を選ぼう。苦労した分だけその後の成長が期待できる。

③リスクを恐れるな
生産や○○などの現場の一人一人が攻めの姿勢で挑む企業体質作りが重要だ。
◆運命式から観ると、茂木友三郎さんは人のつながりの中で、人の意見をしっかりと聞きながらそれらを自分の中でよく考えながら、策戦をたてる人だ。性格の良さは皆から愛されることを表している。現在キッコーマンの会長でありながら幅広く活躍していることがそれを物語っている。

社会的な性格は決して自分がひっぱていくりーダーというよりは、よく物事を考えて周囲の共感を得る努力をしながら、仕事数から問題は知恵で乗り切ろうとするタイプであることが分かる。それらは、社会的な性格と人気数のバランスが優れていることから、摩擦を解決する力があることを物語っている。

特徴は茂木友三郎氏さんの流運を観てみることだ。自分の仕事から逃げないでしっかりとこなしてきた実績があるからこそ、30才を過ぎたころから大きな転機が訪れている。(ということは逃げたくなるようなこともあったはずだ)

71年(36才頃)に米国工場の建設提案が受け入れられたのだ。こうして、73年には米国工場での操業が始まる。この頃の運勢というのは、それまでの辛抱の時から、自分が一番強気になれるときに入っている。そして、その強気を支えいる外交的な運勢も味方をしている。
だからこそ、石油ショックなどの環境的な試練も、この運勢期にある攻めの精神を忘れなかったからこそ、業績を好転させることができたのだ。

45才頃からは運勢期が再び苦労をともなう安定期に入ってくる。この時にも、自分の持つ知恵と人脈、この頃の運勢期にある戦略をしっかりと立てることから、道を少しずつ開いてきた。そして60才の社長就任は、運勢的にも大きな転機を迎えたと言えよう!
この時期より再び、流運は知恵による戦いの時に入った。だから、社長就任から新商品の本格進出が可能になってきたのだ。

こういう茂木友三郎さんの運勢の流れを観てみると、自分のキャリアに素直に従い、自分をうまく生かすことが自然にできていることが分かる。だから自分の運勢にうまくのっているのだと言える。それがこの方の強みなのだ。

決して派手な運命式ではない。しかし、自分をうまく運命式の波に載せることができている。そういう意味では、一つのいいリーダー像と言える。
素直に自分や周囲を見つめそれをしっかりと分析して考えられる頭の良さが、茂木友三郎さんをリーダーに仕上げたのかも知れない。

 

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