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東大首席で元キャバ嬢、年収2億の株トレーダー

まず村田美夏さんを21世紀のワーカホリックから紹介してみましょう。
■ワーカホリックより参照

ウルフ村田さん(本名:村田美夏)という女性トレーダーをご存知でしょうか?
東大の経済学部をトップで卒業し、その後銀行へ就職、やがてNO.1キャバクラ嬢となり、現在は年収2億円を稼ぐ株トレーダーという非常に面白い経歴の持ち主です。


面白いのは経歴だけではなく、本人のキャラクターもなかなか秀逸で、マシンガントークで下ネタ全開、昼から酒を飲みまくるという強烈な個性でいまやメディアに引っ張りだこの有名トレーダーです。
今回は、そんなウルフ村田さんの完璧かつ異彩な経歴をご紹介したいと思います。

 

★東京大学を首席で卒業

高校は名門中の名門、桜陰高校を卒業し、東京大学の経済学部へ入学したウルフ村田さん。
この時点で非常に優秀な頭脳を持っていることは明白ですが、本人曰く、「短期記憶」が得意であって、「長期記憶」はとても苦手とのこと。
なので受験のような「短期詰め込み型」のペーパーテスト系は無類の強さを誇るのだとか。


将来の道を選択するにあたっても、この特性を自分でよく理解していたので、長期的なスパンで物事を分析構築していくような研究職は向いていないと考え、実業の道へ進むことを決めました。
そして村田さんはその後、東大経済学部をなんと首席で卒業します。

 

★まったく使えない人間だった長銀時代

卒業後は日本長期信用銀行(以下・長銀)に就職し、銀行員となったウルフ村田さん。
しかし、性格的にサラリーマンにはまったく向いていなかったようで、ペーパーテストでは満点を取れるのに、実務になるとまったく上手くできないという、いわゆる「東大卒なのに使えない」タイプの人間だったそうです。


完璧に使えない人間になる前に、自分から辞めよう」と心に決めていたそうですが、金融機関勤務の経歴を社会的に認めてもらえるよう、30歳までの7年間は勤め続けました。


その後は転職先を模索することになりましたが、当時は1997年に山一証券が破綻したおかげで転職市場には優秀な人材が溢れかえっていたために、キャリアの浅い自分が飛び込んでも不利になると村田さんは鋭く分析していました。
そして、結果的に村田さんが次の職場に選んだのは……、
なんとキャバクラ嬢でした。笑

 

★頭のキレを武器にナンバーワンのキャバ嬢へ

銀行員からキャバクラ嬢へ転身したウルフ村田さん。 もともとお酒も好きだし、キャバ嬢テイストな服も好きだったということで、「一度はやってみたかった」のだそうです。


とはいえ、その時点でウルフ村田さんはすでに30歳。若さや容姿では他のキャバクラ嬢に勝てるわけがありません。
そこでウルフ村田さんが武器にしたのが、持ち前の頭の回転の早さによる「トーク力」です。


そこで、トーク力だけで乗り切れそうな店を探してやってみたところ、「東大卒」と「マシンガントーク」という要素が思いのほかウケて人気急上昇、最終的にはナンバーワンにまで上り詰めたというから驚きです。


また、当時から株トレードはやっていたそうで、9時から15時までトレードをし、夕方から友達と飲みにいこうとしても、みんな仕事中で忙しい……。だったら夜から飲む仕事を始めよう! という計算もあってのキャバ嬢だったそうです。
しかし、あくまでキャバクラの仕事は一度経験してみたかっただけ。
2年ほどキャバ嬢として働いたのち、この仕事も辞めることにしました。

 

★消去法で投資家の道へ

キャバクラ嬢も辞めたあとは、本格的に投資家としての道を選択したウルフ村田さん。 その選択は「消去法」によるものだったと言います。
事務も苦手、文章も下手、長時間座っていられない……などなど、出来ないものを消していったら、残るものがとても少なかったようで。


唯一自分が得意なことと言えば、瞬発力や頭の回転の早さでした。
株で言うと、アナリストレポートをバーッと読んで、直近の値動きを瞬時に頭に叩き込んで、株価が上がった瞬間にパッと買う。


こういったスピード勝負だけは自分に向いているということで、”ポジティブ消去法”のもと、株式トレーダーとしての道を選択しました。
見極めた得意分野で優秀な頭脳をフルに活用した結果、株式投資で年間に叩き出す利益は億単位に上るそうで……アベノミクスの恩恵を受けた年には約2億円の利益を出したそうです。

 

寝っ転がりながら取引するのがウルフ流。こうして平常時はできるだけ脱力しておくことで、いざという瞬間に機敏に動けるのだそうです(笑)。
また、村田さんは日本企業の技術力を大事にしたいという強い信念を持っている方で、株で稼いだ利益の半分以上はベンチャー企業へ投資しており、トレーダーだけでなくエンジェル投資家としても業界内では有名な存在です。

 

★もう1つの顔は、会社経営者

ぶっとんだカリスマトレーダーとしての顔が有名なウルフ村田さんですが、一方で彼女は、株式会社サクセスワイズという会社の経営者でもあります。
こちらの会社では社会貢献活動を中心に活動しているようです。


『賢い成功へ』というキャッチフレーズにあるように、「成功(success)」と「賢い(wise)」からつけられた社名ですね。
事業内容を見るに、農業を支援するPR事業から、人材教育、経営コンサルティングまで、さまざまな事業を手がけているようです。


「(身なりなど)あまり自分にはお金をかけない」と発言している通り、株を仕事にしているとはいえ、もともと金銭的な欲は強い方でないとのこと。
それよりも社会貢献事業をしたり、ベンチャー企業を支援したりと、社会に有益なお金の使い方をしているようです。

 

★得意分野に一点集中して勝負するということ

ウルフ村田さんは、自身の仕事観についてこのように発言しています。
私はみんなに期待されることがお金を稼ぐ意外に一切ない。 天才は何でもできる。凡人が頑張るには一点集中するしかない。


東大を首席で卒業するウルフ村田さんも充分に凡人の域ではないと思いますが……、 村田さんの主張は、とにかく得意分野の一点にフォーカスし、他から突出することが大事だということです。
突出する力とは、自分が一番得意とする職業分野かつ、人がやってほしいなと思うニーズがあるところに突っ込んでいくということです。


自分は何が得意か、何が苦手なのかを自覚し、「ここで勝負すれば勝てる」というフィールドを見いだした村田さんはやはり優秀だったのでしょう。
世の中の大多数の人は、「行きたいフィールド」ばかりにフォーカスして、「勝てるフィールド」を見つけられずに本来の才能を発揮しきれないで終わりますからね。


まぁしかし、村田さんほど各スキルのパラメータが極端にデコボコだと、見極めるのも簡単だったかもしれませんね(笑)。

村田美夏さん

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■村田美夏さん
◆どんな運命式?

タイプ26-31:パートナー型で目的指向を中心として、戦略的思考するタイプ

<村田美夏さんの運命式>

22 12 21
17 31 14
26 19 24

<村田美夏さんの流運>

1513 1918 1513 1918
1817 2321 0917 2321

 

■村田美夏さんの運命式の特徴
◆運命式は村田美夏さんをどのように導いたか?

簡単に書きましょう!
★異色のようですけど、そうじゃない。

彼女曰く
「本人曰く、「短期記憶」が得意であって、「長期記憶」はとても苦手とのこと。
なので受験のような「短期詰め込み型」のペーパーテスト系は無類の強さを誇るのだとか。


将来の道を選択するにあたっても、この特性を自分でよく理解していたので、長期的なスパンで物事を分析構築していくような研究職は向いていないと考え、実業の道へ進むことを決めました。」

それでは、運命式の経済数をみてみようではないか?
経済数Aの種まきが17、経済数Bの収穫が14という数字が支配している。
そこでは、信念と価値観と大衆の支配である。
この信念を心霊数の26がコントロールし、本性の31が目的を
与えている。


これは内面的な可能性を示している。

そこで、彼女の特徴である勉強面でも仕事面でも「短期集中型」は
どこから出ているのだろうか?
それは、仕事数21をみればこの数字が一目瞭然である。

 

◆長銀時代・・・?
★実はここに長期戦の要素が隠されている。

彼女曰く
「完璧に使えない人間になる前に、自分から辞めよう」と心に決めていたそうですが、金融機関勤務の経歴を社会的に認めてもらえるよう、30歳までの7年間は勤め続けました。」
ここはまさに、村田美夏の心霊数26がいわせた言葉でしょうね!
戦略思考の神髄です。

 

◆キャバクラ嬢時代・・・?
★選択も単純、運命式的。

彼女の選択の基準は、
「村田さんはすでに30歳。若さや容姿では他のキャバクラ嬢に勝てるわけがありません。
そこでウルフ村田さんが武器にしたのが、持ち前の頭の回転の早さによる「トーク力」です。


そこで、トーク力だけで乗り切れそうな店を探してやってみたところ、「東大卒」と「マシンガントーク」という要素が思いのほかウケて人気急上昇、最終的にはナンバーワンにまで上り詰めた」

 

相手と自分の目的を見極める力は本性31のなせる技、更にトーク力というのは分析力や理解力によるところが大きい。これは心霊数26のなせる技。
そこへ、人気数22のとんでもない力が加わった。
それが外交力である。
更に仕事数21は情熱的な目的指向でこれはマシンガントークですね!
これでは、一番になるのは当たり前である。
運命式はそういっている。

 

◆投資家と経営者・・・?
★ここであらゆる要素が結実。

本人は消去法で投資家への道を選択したといいますが、これはまさに
転職でしょうね!
先ず、本性31で目的を定めるのがうまい。それに心霊数26の戦略性。仕事数21の集中型の仕事姿勢。
これらは、投資家的な要素にぴったりです。
それに、仕事を育てるという経営者の側面では、お金の種まきをすると言うのは、そのとおりです。しかもそこにも戦略性がちゃんとついている。

 

●・・・ひとこと・・・

どういう訳か?頭のいい人というのは自分の運命式にとても素直な生き方をしています。
そして成功している。逆に言えば、運命式をうまく利用しているからこそ
いい生き方ができているということなのかもしれない。
先ずは、自分の運命式をしっかりと読み解くことが大切なのだと思います。

 

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将棋界の天才・羽生善治さんのリーダー名を考える

2017年12月5日、将棋界初の永世7冠となった羽生善治さんの名前を判断してみよう! 

●羽生善治さん
<羽生善治さんの運命式> 

タイプ26-31:パートナー型で目的指向を中心として、戦略的思考するタイプ

19 11 23
14 31 17
26 30 25

 

★羽生善治さんの全体像
もう将棋の申し子の様な人ですね!
そうとしかいいようがありません。
何故かというと、将棋のために生まれてきたような運命式の配列を
しているのです。
心霊数26-本性31-仕事数23

これは凄いね!
目的が明確。戦略的思考。常にリーダーシップ。

 

★もう少しこの配列を解説します

<心霊数26の戦略性>
ここに26があるというのは、将棋という頭脳戦で相手に対する戦い方、戦略的な目標を明確に持つことができ、作戦を立てる能力に優れていることを意味する。
これは、常にどうするか!という策を考え続けるという芸術的なまでの思考の訓練をし続けるという習性の様なものである。

 

wikipediaによれば、こんなエピソードが紹介されている。
相手が悪手を指すと不機嫌になると言われており、羽生が勝利した第57期王座戦第2局ではまだ難解な将棋を投了した挑戦者の山崎隆之に厳しい言葉を投げかけたと言われる。

このときの姿は『将棋世界』2009年12月号(日本将棋連盟)の観戦記にも「羽生には勝利を喜ぶ、あるいは勝利に安堵するといった雰囲気は微塵もなく、がっかりしたように、いやもっと言えば、怒っているようにも見えたからだ。」と記されている。また、本人も「相手でも自分でも、どちらかが悪い手を指すと、もっとすごいものを作り出せそうなチャンスがなくなってしまった、ということですから。」と発言している

 

<本性31の持つ意味>
この本性というのは、自分の基本的な立場を立ち位置など全般的なことに影響を与えるのであるが、ここに31を持つというのは、自然体で自分の目的性を思考しているということである。自分がどこに向かおうとしているのかを常にチェックできると言うのは、決して自分を見失わないということでもある。

wikipediaではこんな発言をしている。


初タイトルの竜王を失った1990年の竜王戦七番勝負は、谷川3連勝の後に羽生が1勝を返し、最終的に4-1で谷川が奪取した展開であったが、角番で1勝を挙げた第4局は、入玉模様ではなく攻め合いであったにもかかわらず、203手という長手数の激戦であった。この一局のことを、羽生は「それまでは、昇級・昇段・タイトル獲得という上だけを見ていたが、初めて後ろ向きで対局したという意味で、(将棋観を変えた最も)印象に残る一局」

 

<仕事数33はどんな影響を持つか>
ここは仕事に対する姿勢をみますから、将棋を指すということに対する羽生さんの姿勢が現れるということになります。
それでは33という数字はどんな影響を持つのでしょうか?
ここに33があるというのは、仕事面では何らかの分野で自分が一番になれる可能性を表しています。
そういう強さが備わっているということなのです。

 

wikipediaではこの辺面目躍如なところを見せている。
1993年12月24日の対谷川戦(第63期棋聖戦五番勝負第2局)において、序盤で4四の歩のタダ取りを許す△4二角、さらには、いったん敵玉に迫っていた7九のと金を、香車を取るだけのために2手をかけて△8九、△9九と「退却」させるという、将棋の常識からかけ離れた奇手を指した。売られた喧嘩に谷川が応じる展開の乱戦となり、さらに終盤だけで80手ほどもある激戦となったが、結果、羽生が勝利している。

 

★この3つの特性が一列に配列されると凄いことになる

まとめてみると、本性の持つ31の目的性と心霊数の持つ26の戦略性が相対的な関係を結ぶことで、目的を明確にすることで戦略的な価値を生み出し、戦略を立てていくとその目的性がはっきりと見えてくるようになるという、この関係性が相互に影響し合って、更に将棋の戦略性と更なる目的の高みをを目指していくことになります。


ここに仕事数33の持つ力が関わって、心霊数26と本性31の連合軍に対して仕事数33との相対的な関係で仕事数33が主体的な役割を演じることになる。
常に一番であり続ける。常にリーダーであり続ける。そういう力を自然に持っている。
それが戦略と目的性を強烈に引っ張っていくことになる。

 

●・・・ひとこと・・・

運命式が羽生善治さんという天才を育てのかなとも言えるような気がする。

 

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●家失い「家族」考え抜く(2009年10月時点の記事)

松井 計(まつい・けい)さん
作家
1958年、愛媛県出身。古書店主、執筆集団などを経て松井永人の筆名で作家に。9か月のホームレス体験をもとに、本名で「ホームレス作家」を刊行。ドキュメント番組などにも出演。東京都在住。

 

 「純粋にものを考える時間が出来て、『私にしか書けないもの』を練ることができた」。家を失った体験をつづったドキュメンタリー「ホームレス作家」を書き上げるに至った心境を明かす。

 

 出版予定だった著作が刊行中止になったのをきっかけに、家賃の滞納で住居を追われ、家をなくした2001年。妻や子を施設に預け、9か月マンガ喫茶やファミレスを渡り歩いた日々は同時に、自分を見つめ直す日々でもあった。

 家をなくす前は、主に架空戦記小説を書いていた。デビュー時は4人の執筆集団だったが、1994年に単独で本を刊行。その後も次々と著作を出すうちに、いつしか作家としての自分の力量に自信も覚えるようになっていた。

 

 だが、得意とするジャンルの市場が徐々に大きくなってくると、「読者に飽きられてきた」という。自身の初版は2万5000部から1万5000部、さらには1万部と減っていく。「ブームの中でやっていた」仕事が、ブームが去ると同時に、限界を迎えていた。

 「今思うと、考え方が甘かったが、一作当たれば何とかなる、と思い続けていた」。しかし、起死回生のヒット作は出ず、家賃の支払いに困るようになる。

 

■定職つけず転々

 最初の1、2か月は、とにかく食べていくのに必死だった。街をさまよいながら、路上で寝ない、残飯をあさらない、この2点だけは常に心がけた。「私は弱い人間。一度、路上で寝たりしたら、流されていく、どこか歯止めをかけるルールが必要だった」

 

 定まった家の中に住む普通の暮らしに戻りたい。その一念で定職を探した。だが採用はされるものの、「決まった家がないことがばれたせいか」、3、4日でクビになる繰り返し。派遣切り、ネットカフェ難民といった格差社会の現況を早々と体験した。「自分には書くということしかない」。そう開き直った。

 

 結果として、「ホームレス作家」はベストセラーになり、家のある生活には戻った。とはいえ、妻子とは今でも別居状態のままで、何もかも元に戻ったとはいえない。

 「家という家族のいる場を失い、いやが応でも『家族』を意識せざるを得なかった」。「ホームレス作家」の後にも、「家に帰らない男たち」で家庭とは何かを問いかけ、その本を元にしたドキュメント番組に出演し、別居家庭などの問題を扱うNPO団体で活動もしていた。

 

 自分の弱さを自覚することで、どん底の生活を何とか切り抜けたそのまなざしは、他人の弱さにも優しく向けられている。

(鷲見一郎)
(2009年7月21日 読売新聞)

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■運命式に翻弄された作家ではないかと思う。

「最初の1、2か月は、とにかく食べていくのに必死だった。街をさまよいながら、路上で寝ない、残飯をあさらない、この2点だけは常に心がけた。私は弱い人間。一度、路上で寝たりしたら、流されていく、どこか歯止めをかけるルールが必要だった」

 とにかくこの松井計さんの運命式をみるとどうしてこんなに極端な生き方になったのかが分かると思う。

 

★松井 計さんの運命式をみてみよう!

タイプ18-22:戦略的思考をしつつ、その中で自分自身を変貌自在に変身させられるタイプ

<松井 計さん(50)の運命式>

13 12 21
  9 22 13
18 10 14

<松井 計さん(50)の流運>

1612 1918 1612 1918
1817 2420  917 2420

 

松井計さんの運命式をみると、心霊数18、本性22で作家としての可能を持っているといえる。但し、傾向として極端に変化する可能性を持っているということが、問題になる。仕事数21は情熱型で一途になるのはいいのだが、ここでも一途さの裏返しは熱しやすく冷めやすいということもある。

 

一発を狙い始めれば、作家としてはもう書くことの使命がなくなってしまう。自分に素直になれないでいて、社会に対しては自分のプライドもある。限界になってしまって自分を見つめるという運命式の良さが出てくる。

極端に現れる本性22は内なる弱さと外なる強さの2つの世界を持っている。それが作家としての可能性を持っているのであるが、自分ではこの問題はどうしようもない。

 

「定まった家の中に住む普通の暮らしに戻りたい。その一念で定職を探した。だが採用はされるものの、「決まった家がないことがばれたせいか」、3、4日でクビになる繰り返し。派遣切り、ネットカフェ難民といった格差社会の現況を早々と体験した。「自分には書くということしかない」。そう開き直った。」

 

ちょうどこのような時に遭遇する巡り合わせが流運の中にはあった。1988年から2003年の時である。この時には自分が神経質になり、自分のことばかり気になるようなときとなっている。様々なアイデアや気づきが生まれてくる。

このような試練が社会派的な本を書く原動力になった。でも、このような状況に身を置くようになったのも運命式の持っている影響があるといえる。
身を削る体験が「ホームレス作家」をベストセラーに押し上げたのだ。

 

●・・・ひとこと・・・

自分の運命に素直に耳を傾ければ、何かが生まれてくるのであるが、そこまで自分を見つめるのは容易ではない。特に特殊な運命式を持っているからこそ極端な生き方になったのである。

 

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真の自由にのめり込む(2009年10月時点の記事)

水谷龍二(みずたに・りゅうじ)さん
劇作家・演出家

 1952年、北海道出身。「星屑の町」のほか、芝居では「居残り佐平次」、風間杜夫一人芝居5部作、「悪戦」などの代表作がある。
出世作であり代表作でもある「星屑の町」シリーズは、売れないムード歌謡グループ「山田修とハローナイツ」が旅先で起こす泣き笑いの数々を描くものだ。出演者はラサール石井、渡辺哲、でんでん……「ダメなヤツばっかり」が登場して失敗を繰り返す物語は、「だからこそ人間らしくいとおしい」。人呼んで「酒と歌の喜劇作家」である。

 

 自動車会社に就職するため、苫小牧から上京した時は「脚本家になるとは思いもしなかった」という。「絵描きでもカメラマンでも、自由にモノを作る仕事にあこがれた」だけだった。

 半年で会社を辞め、バイトをしながら「何ができるか」を模索した。たどり着いたのは「放送作家」。「コント55号の何でそうなるの!?」でデビューして、様々なバラエティー番組に携わった。芝居に出合ったのは、30歳を過ぎたあたり、だ。

 

 「旧知の佐藤B作に頼まれて台本を書いたのがきっかけ。やってみて思ったんだよ、芝居は何て自由なんだ、ってね」

 実は、放送作家は「辛抱が大事」な商売だ。プロデューサーや出演者、スポンサー……。テレビ番組には大勢の人がかかわっていて、いろんな事を言ってくる。たまりかね、「けんかして仕事をおろされた」こともあった。見かねた先輩が酒を飲みながら諭してくれたのが、「辛抱――」という言葉だ。

 「だからだろうね、芝居にのめり込んだのは」

 

評価まで10年
今振り返ると、そう思う。とはいえ、作品が評価されるまで10年以上かかった。正直言うと「テレビだけの方が実入りは良かった」が、「食うため芝居をしていたわけじゃない」。

 

 転機になった「星屑の町」も初演は東京・下北沢のスズナリ、客席数200人弱の劇場で、だった。1年半後の再演が評判を取り、シリーズ化され、ドラマになった。昨年の最新作は、客席数2000超の新宿コマ劇場で。歩調を合わせるように、自分自身も人気脚本家になっていた。

 

 今、興味があるのは「男と女、夫婦の関係」。8月5~11日に赤坂REDTHEATERで上演される「六月燈の三姉妹」は、鹿児島を舞台にした家族の物語だ。「どう方言を使うか、工夫するのも楽しい」。今年の舞台は4本。「芝居は好きなことをする」。心構えは昔通りだ。

 

 製紙会社の企業城下町に住んでいたころ。年に一度、会社が開く慰安会が楽しみだった。サラリーマンの父親は森繁久弥の映画「社長シリーズ」が好きだった。セピア色の日常、笑いの空間には「自由」があった。「少し湿っぽい」自分の笑いのルーツが、そこから見える。56年の人生に染みこんだ「酒と歌」が聞こえてくる。(田中聡)

(2009年7月13日 読売新聞)

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■放送作家は天命かも知れない
「自動車会社に就職するため、苫小牧から上京した時は「脚本家になるとは思いもしなかった」という。「絵描きでもカメラマンでも、自由にモノを作る仕事にあこがれた」だけだった。

 

 半年で会社を辞め、バイトをしながら「何ができるか」を模索した。たどり着いたのは「放送作家」。「コント55号の何でそうなるの!?」でデビューして、様々なバラエティー番組に携わった。芝居に出合ったのは、30歳を過ぎたあたり、だ。」

 

★運命式に従った人生?

ある意味で天才というのは、おのずと自分の生き方を分かっている人かも知れない。そういうことからすると、この水谷龍二さんは天才に分類されるのかも知れないと思う。なぜかというと、人生の転機を知っているかのような生き方をしているからだ。それが自然に出来ることも天才の条件なのかも知れない。

 

★水谷龍二さんの運命式をみてみよう!

タイプ22-29:霊的な直感や霊的な影響力を受けて、知識や情報を元に知的に比較配慮するタイプ

<水谷龍二さん(57)の運命式>

13 11 27
  6 29 23
22 18 25

<水谷龍二さん(57)の流運>

17 20 16 12 17 11 16 12
15 20 16 10 15 11 16 10

 

何か自由なことをやりたくて、何ができるかを求めて入った道が放送作家というのは、就職した自動車会社を半年で辞めて自分の道を模索し始めたというのも、何か別の力の糸が働いたかのようです。そういうことというのは、人生の中であるものです。彼の場合心霊数22という不思議な力が働く要素を持っているといえます。

 

それに本性29は知的な力、旺盛な知識欲というのがありますから、仕事数27はそれを形にしようとします。

また、30歳ころまで流運の仕事数が12となり、いろいろなアイデアが出てきます。30歳以降の流運の仕事数は11となり、自分が何かの目的を求めるようになります。


そして45歳以降から再び流運はアイデア創造型の仕事数が戻ってきます。

水谷龍二さん、感性を知的に整理してそれを形にして仕事してしまう達人。人気数13で人にはリーダー的な格好を付けるが、本性29で結構気配りの人といえる。

 

●・・・ひとこと・・・

良い意味で自分の運命式に素直な人である。そこが運勢を呼び込むポイントになっている。霊的な感性と情報を知的に使うこと。やっぱりそういうところは天才的といえるのだろう!

 

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●架空の世界で「リアル」追求(2010年2月時点の記事)

中山和記(なかやま・かずき)さん
テレビプロデューサー
  長崎県出身。共同テレビ専務、同エグゼクティブ・プロデューサーなどを経て、共同テレビ系列の番組制作会社バンエイト社長。ドラマのほか、映画や舞台のプロデュースも手掛ける。著書に「ワイルドサイド」。


「天皇の料理番」「さよなら李香蘭」「ヴァンサンカン・結婚」「29歳のクリスマス」「黒革の手帖」――。30年余にわたってドラマ制作の第一線に立ち続ける敏腕プロデューサーは、常に時代の空気を読み解く作品を仕掛けてきた。
ジャーナリストを目指して入学した早稲田大で、学生運動に傾倒した。「校門前で当局糾弾のビラを配り、教室でオルグ。不眠不休で常にフラフラ」。優の数が足りず、新聞社の受験はかなわなかった。

 

■教師を辞めて
  たまたま2級教員免許を取っていて、卒業後は埼玉県内の女子高教師に。しかし、「高い志もない自分が教師でいいのか」という思いはぬぐえず、1年もたたずに辞めた。

 

 程なく、学生時代にアルバイトをしていた喫茶店の主人から紹介された映画会社に入り、制作進行助手としてドラマの世界に足を入れた。「要するに何でも屋」。あいさつの仕方が悪い。用意した飯がまずい。そんな理由でカメラマンや照明助手から手や足が飛んだ。

 

 高熱を押して働き続け、急性肺炎に胃腸障害を患い、ぜんそくも併発した。発病から10年たった頃発作で意識を失い、生死の境をさまよったこともある。

 30歳を前にテレビ制作会社へ移ったが、先の見えない世界に見切りをつけようと、30歳になっていったんそこも辞めた。

 

 だが、フィリピン・ミンダナオ島のジャングルに潜むゲリラの取材を知人から頼まれ、現地で別世界とも思える過酷な日常を目の当たりにした時、再びドラマ制作への情熱がわいた。自分は架空の世界でリアリティーを追う。その決意が固まった。

 

 「時間よ、とまれ」で文化庁芸術祭優秀賞を得たのが1977年。96年には日本映画テレビプロデューサー協会のエランドール賞も受けた。

 数々の受賞と重なって、多くの出会いもあった。渥美清もその一人。手がけたドラマの岐阜ロケが終わって打ち上げも手締めになった頃、出演していた渥美が突然「(都内にあった)自宅に帰りたい」と言い出したことがある。

 

 時間は既に深夜。理由は聞かず、約500キロの道のりをタクシーに同乗して付き添った。後日、渥美に長男が誕生したことを知る。「出産に間に合いたくて、夜を徹したんでしょう」

 

 共同テレビの子会社「バンエイト」の社長となった今も、数こそ減ったがドラマへの情熱は衰えない。春に手がけた「本音バナナ」(フジテレビ系)は、来月には第2弾が放送予定だ。

 「ドラマを見ることは別の人生を疑似体験すること。これからもいろんな人生を提示したい」(小間井藍子、写真も)

(2009年9月14日 読売新聞)
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■自分がドラマの主人公のような人

「ジャーナリストを目指して入学した早稲田大で、学生運動に傾倒した。「校門前で当局糾弾のビラを配り、教室でオルグ。不眠不休で常にフラフラ」。優の数が足りず、新聞社の受験はかなわなかった。」


「「天皇の料理番」「さよなら李香蘭」「ヴァンサンカン・結婚」「29歳のクリスマス」「黒革の手帖」――。30年余にわたってドラマ制作の第一線に立ち続ける敏腕プロデューサーは、常に時代の空気を読み解く作品を仕掛けてきた。」

 

こんな実績をみれば、すごい人だからと思うのが当たり前だ。その通りすごい人なんだろうけど、それは、自分から目指したというわけではない。こんなところに人生の不思議さがあるが、その不思議さを地でいっているともいえる。
こんな歩みをしてこんな生き方をどうしてしたのだろうか?
運命式の中にその彼をひもとく鍵を見つけることができるかも知れない。

 

★中山和記さんの運命式をみてみよう!

タイプ22-25:霊的な直感や霊的な影響力を受けて、自分の価値観、考え方の中で理解するタイプ

<中山和記さんの運命式>

17  7 15
14 25 11
22 18 21

<中山和記さんの流運>

18 17 23 21  9 17 23 21
15 13 19 18 15 13 19 18

 

中山和記さんの運命式から見えてくることは、心霊数22から自分の人生を自分で作ってきたというよりは、自分の人生に自分が身を任してきたということである。そのことが結果として様々な実績を残すことになったといえる。

それは、すでに学生運動に走ったときからその影響が見える。
心霊数22は感性に敏感、本性25はどこか自分にこだわる頑固さと守りの姿勢がある。

 

中山和記さんという方の偉いところは、心霊数22に従って自分に素直であるということだ。このことが結果的に自分の感性を磨くことになる。
打算と欲望で世の中をはかり、人生を計っていないということだ。それが素晴らしい。


本性25は自分の考え方や価値観が固まってしまいやすいので、これが感性にはマイナス要因になることもある。
しかし、この心霊数22の導くままに自分の考え方を探ってきた。そういうところが凄いということである。
そして、考え方が決まった。

]
「自分は架空の世界でリアリティーを追う。」

心霊数22から来るインスピレーションに本性25の価値観、考え方が決まれば、もうそれからは、迷いはないはずだ。
でもその考え方が自分のものになるまでの時間が財産になったと思う。
数々の実績は、その重荷に耐えてきたという結果であろう。

 

●・・・ひとこと・・・

この方をみていると、運命式という自分の可能性を自分自身が使いこなしていることが分かる。どんな高級車を持っていてもそれを乗りこなしていなければ、高級車の意味がないのだが、運命式も同じだ。


どんなに可能性のある運命式を持っていても、それを自分が使いこなさなければいい人生には決してならないことと同じだ。そのポイントは自分に素直になることだ。こねくり回しても決していいものは生まれない。

 

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●「空気読まない」態度を(2010年5月の時点の記事)

■鎌田 實さん

諏訪中央病院名誉院長 「あきらめない」「それでもやっぱりがんばらない」などの著書で知られ、諏訪中央病院の名誉院長を務める鎌田實さん。2月に出した著作「空気は読まない」では、世の中の流れに染まらず、信念を貫きながら生きる25人の実例を紹介している。鎌田さんの仕事への信念、就職観を聞いた。

 

◆今のよどんだ空気が…

 「かつて、国全体がある空気に染まり、戦争に突入していったように、今のよどんだ空気が、人の流れや不況を決めているのではないか」と鎌田さんは言う。職場や地域でも「空気を読む」ことが強要され、教室では「KY(空気が読めない人)」と言われないよう、子供も相手の顔色をうかがっている。

 

 「かつて、『空気を読む』ことで成長してきた日本も、21世紀はそれでは乗り越えられない。もう一度、どうしたら強い国になれるかを考えた時、『空気を読まない』という凛とした態度が大切なのではないか」。それが今回の本を書いたきっかけだった。

 

◆1%は世の中のために

 本には、親や職員の反対に遭いながらも、「弁当の日」を作り、子供たちに家族への感謝の気持ちを気づかせた校長先生。知的障害者の就職、結婚、暮らしを支援する社会福祉法人……。そうした「信念を貫いた人々」の事例が登場する。


「普段は自分のために生きていても、たった1%世の中のために生きると幸せになれる。そして、自分一人で生きているのではないことを学びます。そうした経験があれば、人生の壁に当たった時、簡単に死んだりはしません」

 

 現在、若者を巡る雇用状況は厳しい。就職活動は氷河期と言われ、正規の職に就きたくても就けないフリーターも多い。「大学を出ても80%ほどしか就職ができない国はおかしい。若者を大事にしないと、国の未来はない。国が伸びることで、若者が就職できる――。それがなぜ大事なのかと言えば、仕事を通じて人は成長し、学ぶからです」と鎌田さんは言い切る。

 

 36年前、医師になった鎌田さんが選んだ就職先は、長野県内の赤字4億円を抱えた小さな病院。「大病院に就職するのが一般的だった時代。周囲からは『都落ちしてバカだな』と笑われました。けれど、わざと周囲と逆を行くことでしか見えない景色もある。逆転の発想です」と打ち明ける。

 

 鎌田さんは生まれてすぐ親に捨てられ、拾ってくれた育ての親も貧乏だった。苦労の連続の中、身に着いたのが「人生は波。つらいこともあるけれど、下がったら、必ず上がる」という人生観だった。大病院に入れば何をやっても当たり前だが、経営状態の厳しいつぶれそうな病院に行けば、「少しの努力でも褒めてもらえた」。これが鎌田さんのモチベーションになった。

 

 19年間にわたって、チェルノブイリやイラクの子供たちに薬を届けるボランティアを続けるのも、「1%は誰かのために」との思いからだ。

 「就職でも、大企業に入れなければ人生ダメなわけではなく、大事なのは、何でもいいからやってみること。そして決してへこたれないこと。人生では必ずいい波はやってくるので、その時、波に乗れるよう体力や知力を鍛えておくことが大切」とアドバイスしている。

(2010年5月27日 読売新聞)

 

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■頭の使い方で、運命式の運用が変わった

「36年前、医師になった鎌田さんが選んだ就職先は、長野県内の赤字4億円を抱えた小さな病院。「大病院に就職するのが一般的だった時代。周囲からは『都落ちしてバカだな』と笑われました。けれど、わざと周囲と逆を行くことでしか見えない景色もある。逆転の発想です」と打ち明ける。


鎌田さんは生まれてすぐ親に捨てられ、拾ってくれた育ての親も貧乏だった。苦労の連続の中、身に着いたのが「人生は波。つらいこともあるけれど、下がったら、必ず上がる」という人生観だった。大病院に入れば何をやっても当たり前だが、経営状態の厳しいつぶれそうな病院に行けば、「少しの努力でも褒めてもらえた」。これが鎌田さんのモチベーションになった。」

 

逆境の中で自分を鍛えてきた生き方が、自分自身の運命式のいい使い方になったといえる。やっぱり何かをする人は、どこかで紙一重のところがあるが、そこをちゃんと切り抜けているから面白いというか凄いといえる。

こういう人生の達人を見ていると、自分に素直になって自分と向かい合っているということが分かる。そこに、生きるということのポイントがあるように思える。

こういう鎌田さんだからこそ、自分が納得する生き方をしてきたのだと思う。

 

★鎌田寛さんの運命式をみてみよう!

タイプ33-38:リーダー的自分を中心として、策戦思考するタイプ

<鎌田寛さんの運命式>

24 23 37
19 38 19
33 15 20

 

鎌田寛さんの運命式を見てみると、仕事数37で何事かなさんといういい運命式をしている。ただし、それは条件付きだ。心霊数33で公的な世界をちゃんとつくれれば、たぶん人生の山や谷を乗り越えられるということである。

 

ということは、お医者さんという職業を選んだことじたい正解だったといえる。ただ、お医者さんでも現在は様々だから、すべての医者がいいというわけはないということだ。その中で、鎌田さんの選んだ生き方は、田舎のつぶれかかった病院というから、その発想が面白い。本性38で、ちゃんと理由があって作戦的に自分の生き方として選択しているところに、持ち前の良い意味での主体性がある。

 

この方は心霊数33で間違えば自己中になって自分の生き方が人を利用するということになりかねないから、この作戦と選択は格好いいということになる。何故かというと、公的であると同時に自分を中心として自分を評価できるようになるからだ。

 

仕事数37も何事かなさんという運勢を持っているから、あとは作戦次第ということになる。心霊数33の強い主体性も、人気数24で人との関係では本性38の策戦と思いやりでいいつき合いがなせるということだ。そこら辺は、実体験が大きな糧になっているのだろうと思う。

 

●・・・ひとこと・・・

大体いい生き方をしている人というのは、どこかで公的な精神を持っている。不思議なことに、より大きなもののために動いていると、自分の持っている内容がドンドン大きくなっていくのだ。そういうことで運命式の使い方も上手くなってくる。そういう不思議な世界が運命式を運用していくとあるのだ。これはちょっとした人生のポイントかもしれない。

 

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■後藤新平(歴史上の人物・2013年の時点の記事)

■後藤新平

後藤 新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家である。位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。

 

台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長を歴任した。

 

計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名された、日本の植民地経営者であり、都市計画家である。台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し、日本の大陸進出を支え、鉄道院総裁として国内の鉄道を整備した。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の帝都復興計画を立案した。

wikipediaより

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■関東大震災後、帝都復興計画を立案した後藤新平

2年前の3月11日、東日本大震災が発生した。全く日本民族にとっては未曾有の大災害であった。福島では人類が経験したことのない大量の放射線被曝という事態まで起こってしまっている。
同じように、今から90年前に起きた関東大震災で東京は一面焼け野が原になった。その東京を甦らせて、現在の大東京の基礎を作ったのが後藤新平であった。

 

<wikipediaより抜粋>
関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、13億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約1年分)のため財界等からの猛反対に遭い、結局議会が承認した予算は5億7500万円に過ぎず、当初計画を縮小せざるを得なくなった。それでも、後述するように、現在の東京の都市骨格、公園や公共施設の整備の骨格は、今なおこの復興計画に負うところが大きい。

 

道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小されながらも実際に建設された。南北軸としての昭和通り、東西軸としての靖国通り(当初の名称は「大正通り」)、環状線の基本となる明治通り(環状5号線)など、一定の街路は、曲がりなりにも実際に建設が行われている。


当初の案では、主要街路の幅員は広い歩道を含め70mから90m、中央または車・歩間に緑地帯を持つという大規模なもので、自動車が普及する以前の時代ではその意義が理解されにくかった。

 

★こんな大風呂敷を実行に移した後藤新平という人はどんな人だったのか?明治期というのは、怪物を排出する土壌があったのかもしれない。


■後藤新平

タイプ27-45:自分に対する結果や形、スタイルを中心として、知識や情報を元に知的に気配りするタイプ

<後藤新平の運命式>

32 27 40
14 45 31
27 18 36

 

ちょっと長くなったが、後藤新平がどんな人だったかということが、あまり知られていないので、その業績を紹介した。

「大風呂敷」と呼ばれていたらしいが、その行政手腕はたいしたものだったということである。


運命式から見ると、後藤新平という人はそんなに凄いことをした人かということだ。一見どこにでもありそうな運命式であるが、その彼が日本の首都のあり方や国家の形を決めていったのであるから、この運命式は研究に値するということだ。

後藤新平の運命式のどこが凄いのか?
それは、彼が自分の持っている運命式を「一点豪華主義」として、花を咲かせたということだ。
32 27 40
14 45 31
27 18 36


まず、彼の運命式を見てみよう。心霊数27は頑固そのもので、人のいうことを素直に聞く人ではない。自分の考えと価値観に忠実な人である。
問題は本性45である。彼はまじめな知恵の人ということである。


この知恵をとことん磨いたということが、彼の出世の秘密ということである。もう一つ、脇役も揃っている。それは、その知恵を鼻にかけてひけらかせるということではなくて、人とのつながりの中で仕事をしていくという仕事数40と、人気数32で人にはあくまで柔らかであるということである。

 

ここに医者として、行政官としての面目躍如たるところがあるということだ。東北大震災当時に、こんな人物がいれば日本はもっと変わったかもしれないのだ。でも菅直人首相の下では誰もその力を発揮できなかったように思う。それほど、管直人の運命式は周りを振り回しても、決して何かを成し遂げる人物ではない。

 

●・・・ひとこと・・・

日本の不幸は、阪神大震災の時もそうであったが、東日本大震災の時も野党が政権を握っていたときだ。村山政権と菅政権だ。ということは、長い野党暮らしで政治と行政能力が欠如している中で、大危機が起こってしまったということである。無能な政治家と平和ぼけで卓越した行政官を育ててこなかったということ。ドングリの背比べでは、いい仕事はできない。
「一点豪華主義」で良いから、ちゃんとした人材を育てて欲しいものである。

 

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■【天野篤】一昨年、天皇陛下の心臓手術の執刀医を務める
(2014.03.20の時点の記事)

 心臓を動かした状態で行うオフポンプ手術の第一人者。執刀手術数は6500例以上で成功率は98%。一昨年、天皇陛下の心臓手術の執刀医を務めたことで、3浪で私大医学部卒など、実力と学歴のギャップがクローズアップされた。

 

 「丸山明宏(美輪明宏)さんの『人生はプラスマイナスゼロ』という考え方に共感を持っています。浪人して、貧しくて、つらい研修医時代があって。それはマイナス。だけど、天皇陛下の執刀医になり、世の中から認められて、悪い思いは払拭された。プラスマイナス5%ぐらいの振れが、ちょうどいい。次は上がるのか、下がるのか。今はわからないですけどね」

 

 近著『熱く生きる』(セブン&アイ出版)には、これまでの闘いの日々が綴られている。父親の心臓病と、その命を救えなかった思いを秘め、患者のために「医師道」を貫いてきた。手術においては妥協や甘えは一切ない。

 

 「命に関わる職業を選択したので、私自身は、サムライに近い信念を持っていると思っています。アスリートは、心・技・体という言葉を使いますが、心臓血管外科医は、心・技プラス戦略がないと難しい。だから、単なる医師ではなく、武士道に近い『医師道』を極めないといけないのです」

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■どんな人?

面白いというよりは、すごい人がいるなという感想である。
こんなすごい人はどんな人なのだろうかという興味が占い師魂をくすぐるのである。だから、すぐに運命式を書いて分析したくなるという悪いくせである。


人を占いごときで分析するというのも失礼は十分承知であるが、占いはあくまでその人の人となりを理解するための位置情報手段であると思っている。だから、これで全部がわかるようになるとは思わない。

天野先生はどんな人だろう!

早速運命式を出してみた。

 

■どんな運命式?

■天野 篤先生

タイプ21-32:情熱的に目的集中しつつ、物事に柔軟に対応するタイプ

<天野 篤先生の運命式>

16 15 31
  5 32 27
21 17 28

<天野先生の流運>

1412 1016 1412 1016
11 8 1513 1117 1513

 

■天野先生の運命式の特徴

天野先生の運命式の特徴

1.情熱型の心霊運
2.目的型の仕事運
3.柔軟性のある本性

この三つのバランスがうまくかみ合っているのですね!そこがすごいところです。
何かを成し遂げられるパワーがあります。
でも、欠点があります。それは何かの原因で情熱が冷めたらおわりということと、目的優先になりがちで他を犠牲にするかもしれないこと。

 

■思った通りのいい運命式

思った通りいい運命式をしていますね!
これが感想です。

何よりも天野先生は心霊数21で情熱的な方です。そこが素晴らしい。
そして、自分の情熱を傾ける目標を仕事数31でしっかりと持っていることです。
それが運命式に出ています。


それから、ただ知的に、技術力が優れているということではなくて、心霊数21と本性31でちゃんと直感が働くんですね!
それが仕事上では土壇場になった時に大きな力を出すと思います。

普段は本性32で柔軟性があって、誰にでもちゃんとあわせられる姿勢を持っていますから、自分が偉いなどと権威ぶることもない方だと思います。

 

でも人気数16で人付き合いではちょっとこだわりや堅いところがあります。自分の関係するところ、自分の目的にあったところとの関係という範囲を決めてしまっているところです。でも、それが返って専門性を高めることにもなるのでしょうね!

 

なんかいいところばかり書いているようですが、いい人はやっぱりいい人なんです。
でも、いい運命式がいい回転をするためにはちゃんとそれなりの理由とやっぱり犠牲があるんですね!
それは、天野先生のお父様です。お父様の心臓病という犠牲があって今の天野先生の動機が生まれ、その結果が天野先生をつくっているということを思うと、やっぱり天野先生をお父様は応援しているように思えてきます。

 

これがなかったら、天野先生は一生懸命なんだけど、飽きっぽくて次々と興味が移って何とうつろ気なんだろうかといわれそうです。
自分の目的以外関心がない。そんな人で人の心がわからないといわれていそうです。

 

でも、お父様のことがあったからこそそのような運命式の特徴を乗り越えて大業を成し遂げようとしておられるともいます。
ですから、天野先生はお父様の応援団の中で活動しておられるような気がします。

 


●・・・ひとこと・・・

人間は色々なところでいろいろと思う。
そのいろいろと思うところは、思わされているということに気がつくことです。すると思わしている原因があることに気がつきます。そこが見えてくると、人生というものは自分であって自分ではないという気がしてくるものです。
ひとりじゃない! 「with you」の生き方は楽しくなると思います。

 

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■【西岡京治】ブータンの為に生き、ブータンの為に死んだ男
(2014年7月時点の記事)

ブータンに「西岡記念館」
【パロ共同】

ヒマラヤのブータンへ50年前に渡U、農業技術指導者として同国の発展に尽力した故西岡京治氏(1933~92年)の功績を紹介する記念館が17日、西部パロに開館し、国際協力機構(JICA)の田中明彦理事長やブータン政府高官ら約100人が出席して式典が行われた。

 

西岡氏は、日本がブータンと外交関係を樹立する前の64年、JICAの前身組織から派遣された。
農業が技術的に遅れていた当時のブータンでコメの品種改良や野菜栽培の普及、農業機械化などで献身的な活動を続け、食料自給率と生産性を向上させた。


80年には外国人として初めて、貴族や政府高官らに贈られる爵位である「ダショー」の称号を国王から授与され、同国で死去した際には国葬が営まれた。今も「ダショー西岡」と呼ばれ、広く尊敬されている。

17日、ブータン・パロに開館した記念館で故西岡京治氏の写真を見る人たち(共同)
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■どんな人?・・まずこの記事を読んで下さい。
長いけど必読の価値あり。是非と想い載せました。

●ブータンで最も尊敬された日本人 西岡京治 
引用元
http://www.ifsa.jp/index.php?kiji-sekai-nishioka.htm

 

★国際協力事業のモデルとなる身の丈にあった開発を

神秘の国ブータンで、一人の日本人が28年間、農業技術指導を行った。農作物の生産力を飛躍的に増大させ、若いリーダーの育成に成功した。一人の日本人の「無私の貢献」がブータンの未来を拓いた。ブータンを愛し、ブータンのために生き、ブータンのために死んだ西岡京治は、日本人の誇りである。

 

★神秘の国ブータンで農業指導

西岡京治は隠れた偉人である。日本人で彼を知っている者は、ほとんどいない。
しかし、ヒマラヤの小国ブータンでは、最も有名な日本人である。彼はこのブータンに渡り、28年間という長期間、この国で農業指導に携わってきた。日本の国際協力事業の最も成功した例として西岡京治は記憶されている。

 

そもそも、日本人はブータンという国そのものをほとんど知らない。神秘の国なのである。人口は100万人程度で、国民の大半は農業で生計を立てている。しかし、国土の大半は山と谷であるため、田畑に使える土地は1割程度。農業自給率が極めて低く、60パーセント程であった。西岡はこうしたブータンの問題に真っ正面から取り組んで、28年間ブータンの農業指導に自分の人生を捧げたのである。

 

★恩師中尾佐助の推薦

西岡京治がブータンと関わりを持ち始めるきっかけは、恩師中尾佐助助教授との出会いからはじまる。西岡は大阪府立大学農学部の学生で、中尾はその助教授であった。彼はかねてから、ヒマラヤ地方の植物の生態に関心を持っており、1958年、日本人としてはじめて、ブータン政府の正式な招きを受けて入国した。

 

この時、中尾はブータンのドルジ首相から、農業専門家を派遣してほしいとの依頼を受けた。ブータンの農業指導にあたるには、ブータンの人々の生活に溶け込んで、「あの人の言うことなら間違いない」という信頼を受けなければならない。
中尾は西岡を推薦することにした。穏やかで謙譲、友誼に厚く、誠実で努力家である西岡は、根気と忍耐が予想されるブータンでの生活に最適な人材と中尾は考えたのである。

 

★ブータン到着

1964年4月23日、西岡は新妻里子を伴いブータンに向かって飛び立った。
目的地はブータンのパロである。パロはパロ県の中心の町で、西岡が20数年間住み着いて農業指導した町である。西岡は、さっそく開発庁農業局の事務所に出向いた。そこで最初の壁に直面することになる。この事務所の局長も職員もインド政府から派遣されたインド人で、全て彼らが取り仕切っていた。


西岡は歓迎されていなかった。局長は、ブータンの農業事情を一番よく知っているのは、自分たちインド人で、海の向こうの日本人に何がわかるかと言わんばかりの態度であった。

こうした冷たい歓迎を受けながらも、到着早々、それにめげるわけにはいかない。
彼らを納得させるには、実際に試験栽培で見せるしかない。ところが、ブータンにはまともな試験農場が一つもないのである。彼の最初の仕事は、政府に働きかけて試験農場の土地を提供してもらうことであった。

 

★試験農場での野菜栽培

政府が提供した最初の試験農場は、2百平方メートル程の小さなものであったが、とにかくここから始めるしかない。政府はまた3人の少年を実習生として付けてくれた。まだ12、3歳の少年たちである。彼らが、後にブータン農業を担う人材に成長する。

 

西岡がまず最初に彼らに教えたのは、大根の栽培である。種は日本から持ち込んでいた。畑の耕し、種のまき方、土のかけ方、一つ一つを丁寧に少年たちに実演して見せてあげた。大根は夜と昼の寒暖の差が大きい程、よく育つ。


7月末には、それまでブータンでは見たことのない大きな大根が育っていた。1年目の出だしは、まずまずの成果と言えよう。  2年目には、試験農場を水はけの良い高台に移してもらった。広さも3倍になる。


この頃になると、試験農場の噂が広まり、知事や国会議員がつぎつぎに試験農場を訪問するようになっていた。その一人の助言で、試験農場で栽培された野菜を国会議事堂前で展示してみた。これが大評判となり、訪問客も増えていった。

 

2年の任期が切れようとする頃、西岡は悩んでいた。ようやくブータンの農業がわかりかけてきた。ここで帰国してしまえば、当初の目的を果たせないし、この2年間も無駄になる。こんな気持ちで悶々としている頃、国王から任期延長の話が飛び込んできた。願ってもないことである。この2年の努力を国王が評価してくれたのだ。さらに、国王から広い農場用地を提供するという申し出もあった。


彼は、「ブータンに来て、これほど嬉しかったことはなかった」と語っている。
彼のブータンにかける意気込みは生半可なものではなかったのである。この時作られた農場が、ブータン農業の近代化を担っていくパロ農場である。

 

★稲の増産

1971年は、ブータンの農業史において画期的な年となった。パロ農場以外の農家の田圃で初めて「並木植え」の田植えが行なわれた。並木植えとは、縦と横の一定間隔で苗を植える方法で、日本では昔から行われていた。


しかし、ブータンでは勝手気ままな植え方をしているため、手押しの除草機が使えないし、苗と苗の間の風通しも悪く、成育によくなかった。西岡は、これをなんとか改めようとしたが、昔からの農法を変えるのは簡単なことではない。

 

まだ一部とはいえ、初めてそれを実行する農家が現われたのである。しかし、収穫量がもし上がらなければ信頼は一気に失われる。西岡は祈るような気持ちで稲の成育を見守った。結果は、並木植えに変えただけで、40%の増産。


西岡は胸を撫で下ろした。 パロ盆地では、数年のうちに約半数の農家が並木植えに変わり、現在ではパロ盆地の8割は並木植えになっている。その効果を誰もが認めたからである。

 

★シェムガン県の開発

1976年から80年までの4年間、国王直々の立案によるシェムガン県の開発プロジェクトに責任者として携わることになる。このシェムガン県は、貧しいブータンの中でも極貧地域で、中央から忘れられた土地と言われていた。人々は昔からの焼畑農法に頼っていた。収穫量が下がると新しい土地に移住して、また森を焼き、畑を作る。それを繰り返す生活だった。

 

西岡はここに10人のスタッフと一緒に乗り込んだ。一番困難であったのは、この地域の人々を説得することであった。西岡の粘り強い説得が続いた。村人との話し合いは、800回に及んだという。中尾佐助が見込んだ通り、実直で忍耐強い彼の性格がここにおいて生かされた。西岡の考えは、「身の丈に合った開発」である。


いたずらに莫大な費用をかけるのはよくない。自分たちのやれることは極力自分たちの手で行なう。最小の費用で最大の効果。西岡の信念である。

古い壊れかけたつり橋をつけ変えるにしても、コンクリート製の橋を作るのではなく、耐久性に優れたワイヤーロープ製のつり橋を作ることにした。


費用も安くつくし、地元のつり橋架橋技術も生かされる。これで17本のつり橋が新しく作り変えられた。水田に水路を引くにも、塩化ビニール製のパイプや竹を利用した。
合計360本もの水路が完成したという。彼らの手で新たに作られた道路は、全長300キロメートルにも達した。

 

この開発期間で彼らがシェムガン県に開いた水田は60ヘクタールに及んだ。それまで水田は1・2ヘクタールしかなかったので、なんと50倍に拡大した。極貧地域は驚くべき変化を遂げた。生活が安定した。子供たちが学ぶ学校もできた。


診療所もでき医者も定期的に来てくれる。何よりも、定住地ができたことは大きい。村人は口々に西岡にお礼を言った。「はじめに西岡さんが言ってくれた通りになった。お礼をいいます」と。別れの時、村人の多くは涙で西岡を見送った。

 

★「ダショー」の称号

1980年、西岡は長年のブータン農業への貢献を評価されて、国王から「ダショー」の称号を受けた。ダショーとは英語のベストを意味し、「最高に優れた人」という意味である。


これは県知事や最高裁判所の判事クラスしかもらえない称号で、ブータンでは最も栄誉あることであった。この時、すでに16年の歳月が過ぎていた。76年にシェムガン県の開発に携わるとき、妻の里子は7歳になる娘の教育も考えて、帰国しているので、この4年間は全くの単身での生活だった。

 

それからさらに12年間、西岡のブータン生活が続いた。1992年3月21日、日本にいる妻のもとに一本の国際電話が入った。ブータンからであった。電話の主はうわずった絞り出すような声で、「ダショー・ニシオカが亡くなられました。


昨晩、病院に入院したところ、病状が急変しまして……」。突然の訃報に動転しながらも、「葬式はどうなさいますか」との質問に、里子はとっさに「パロでお願いします。ブータンの葬式のしかたでお願いします」と答えた。ブータンで28年間、ブータン人になりきって、ブータンのために生き、ブータンのために死んだ夫である。そう願っていると彼女は確信した。

 

西岡の葬儀は、妻と娘の到着を待って3月26日に行われた。農業大臣が葬儀委員長を務める国葬であった。ラマ教の僧侶の読経が絶えまなく続き、ブータンの山々にこだました。パロ盆地が見渡せる丘に作られた葬儀場で、遺体はしめやかに荼毘にふされた。彼を慕う5千人に及ぶ人々が、ブータン全土から弔問に集まった。


ブータンでこれまで誰も経験したことのないほど立派で盛大な葬式であった。ブータンは国をあげて、西岡に感謝の心を捧げたのである。

西岡はブータンの土地に今なお眠っている。そこは、パロの人々と収穫の喜びを分かち合った土地である。西岡の心の中にブータンが常にあったように、ブータンの人々の記憶の中に今でも西岡京治は生きている。

 

★とにかくビックリして、こんな日本人がまだいたのかと思い、こんな人はみんなに知って欲しいとはやる気持ちで書いています。
何故かというと、おかしな日本人ばかりのニュースが新聞紙上に載るからです。早速運命式を出してみた。

 

■どんな運命式?

■西岡京治先生
タイプ22-30:霊的な直感や霊的な影響力を受けて、自分中心のリーダー性が変化するタイプ

<西岡京治先生の運命式>

22 14 22
14 30 16
22 16 24

<西岡京治先生の流運>

12 14 13 13 12 14 13 13
14 14 13 15 14 14 13 15

 

■西岡京治先生の運命式の特徴

西岡京治先生はどんな人か?
★恩師中尾佐助助教授から見た西岡京治とは・・

1.穏やか
2.謙虚
3.友誼に厚く
4.誠実
5.努力家

 

★運命式から見た西岡先生の特徴

1.自分に厳しい
2.外交能力が高い
3.物事を受容する霊的感性が高い
4.向上心が強い
5.明るい
6.主体性が強い

22 14 22
14 30 16
22 16 24


西岡先生は普通の人ではありません。普通の人でないというのは運命式的に見て特殊な要素を持っているということです。
心霊数22仕事数22で、直感的な感性も凄いのですが、様々な見えない世界の影響を受ける力を持っています。


それに、本性30が明るいリーダーシップを持ち、更に人気数22はすぐれた外交能力を持っていることを表しています。
そのように見てみますと、
ブータンという国の状況に一番あっているのが西岡先生だと見抜いた中尾佐助助教授はたいしたものだと思います。

 

どんな能力もその時の環境や状況に相対しなければ成功は収められないからです。
そのように考えると、西岡先生の性格や能力は、まさにブータンの為にあったような気がしてなりません。

 

何が特殊かというと、心霊数、仕事数、人気数に22という特殊な数字を持ち、本性30の強い主体性と自分の世界観があります。人気数22の人に対しての柔軟性と、心霊数22の物事を本質的に見抜く感性、本性30の自分に厳しくどこまでも自分ワールドを追求していく姿勢などのバランスが凄いです。

 

それに、流運(15年周期の運勢)が面白いのです。自分を厳しく追求していく期間と人との関わりをつくり人に向かい合っていく期間が交互に現れるのです。
それが、ぴったりと一致するんですね!これも不思議です。

 

■ブータンの仏様が西岡先生を呼んだ

「紹命される」という言葉があります。西岡先生の場合はこれがピータリと当てはまります。
どうして紹命されたのではないかと考えるのは、運命式の中に2つの理由が考えられます。


①西岡先生の運命式には霊的な感性としての鬼門の門が開かれているのです。さらにその鬼門の門の数字が天界と地上界をつなぐ数字であること。
彼自身も58年に西北ネパール探検隊に参加して、ヒマラヤに高い関心を持っていて、そこに住む人々の貧しい生活に心を痛めていたからです。

 

②西岡先生の流運は、自分を極める時には厳しいほど自分の世界に向かっているのに、1964年2月海外技術協力事業団(国際協力事業団)の派遣が決定する時には、全ての運勢が人に向かっているという不思議な巡り合わせになっているのです。

まさに西岡先生の運命式はブータンのために神様や仏様が用意したと考えられます。

 

●・・・ひとこと・・・

人には存在する価値があり、人生には意味があるとよく言われます。自分を見れば本当かな?と思う時がありますが、西岡先生の運命式を見ていると、人には天が用意した生きる価値と場所があるんだなと思わされます。


だからこそ、自分の今の環境こそ天職と思い全力を尽くすこと。そう思わされました。何かに召命観を持った生き方、そんな生き方をしてみたい。

 

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●「いい仕事」…2007年11月時点の記事
古伊万里染付を世に紹介・骨董商 中島 誠之助さん

 東京都渋谷区の戸栗美術館で開館20周年記念特別展「からくさ―中島誠之助コレクション」が開かれている(12月24日まで)。人気テレビ番組「開運! 

骨董商 中島 誠之助さん
江戸っ子だ。さっぱりした性分に唐草文様はよく合ったのでは、と聞くと「合ってたねぇ。安かったしな」と破顔一笑(戸栗美術館の展示室で)=小西太郎撮影

 

なんでも鑑定団」でおなじみの中島さんは、港区南青山に構えた名店「からくさ」で古伊万里染付(そめつけ)を扱い、広く価値を知らしめた人だ。以下は展覧会を機にうかがった、骨董(こっとう)商として“いい仕事”をした一代記――。(前田恭二)


◆プロフィール

1938年、東京生まれ。茶道具の目利きだった父・文吾氏の店を手伝い、骨董商の道へ。68年、まず最初の店を持った。

 

■目指したもの

  私が主体としたのは18世紀後半から19世紀前半、市民文化が爛熟(らんじゅく)したころの古伊万里染付です。優れた器はあるが、食器の世界。展覧会を開いて頂けるようになるとは夢にも思わなかったね。着眼する人はわずかで、人によっては「幕末の雑器」と一くくりにしていた。父の世代まで「型物」と呼ばれる贈答用の優品でないと、古伊万里と言わなかった。

 

 1938年、東京生まれ。茶道具の目利きだった父・文吾氏の店を手伝い、骨董商の道へ。68年、まず最初の店を持った。

 本当は桃山の茶陶や中国の陶磁を扱いたかった。しかし力がないと立ち入れない世界でね、利益を得るのが難しい。


70年にはこれじゃいかんと店を壊した。若かったんだねえ、大黒柱をノコで切り倒して。天井が崩れてきたよ。在庫も換金して旅に出た。主に美濃地方で、業者や市場を回った。すると自分の知らなかった、あらゆる古物市場がある。それが転機となって、染付が目に留まった。

 

■古伊万里染付
なぜ染付かというと、一番商売になるわけだ。安くて無数にある。そばちょこを段ボール1箱3万円で買ったら、200個以上入っていたこともあった。ただし、私が地方の市場や業者から集める時、茶会席で使える道具という基準線があった。


父が茶道具商だからね。めりはりが利いて、間の取り方がいいもの。中島っていう若造の買うものはきれいだと言われたね。

 仕入れた2000点を元に76年、「からくさ」を開店。正札・現金取引など新たな発想を打ち出した。

 

 お客さんの顔を見て、値段を言うのも一つのやり方です。しかし雑器と呼ばれた古伊万里染付だ。発想を転換しないといけない。店の造りは銀座のテーラーを研究した。同業者は出入り禁止。逆に婦人雑誌の料理欄の担当者と知り合って、器を使わないかと。雑誌が出ると全国から注文の電話が来た。たちまち軌道に乗って、700日連続で売れ続けた。

 

 だんだん一流の業者までが古伊万里染付を扱うようになったね。だから私は手を引いたんだ。テレビに出始めて、ただで見てくれ、なんていう人も来るようになったので2000年で店を畳んだ。

 

 店舗とは別に、鑑賞陶磁も扱ってきた。先月14日死去した収集家で、戸栗美術館理事長の戸栗亘琉(とおる)氏にも名品を納めている。本展覧会もその縁による。「たこ唐草文瓶」など100点余りは茶道具仕込みの目で集め、手元に残った名品だ。

 

■格がない人には売らない頑固さ
高買いして、売れなかったもの。だからいいものだ。私は格がない人には売らなかったしね。ただし正直に言うと、たこ唐草は下手(げて)なもんです。いいものは1000点に1点ですよ。そこを分かった上で、たこ唐草なり、古伊万里に取り組んで欲しいよね。中国や桃山時代という原点を勉強して、もう一度古伊万里染付をやると、見方が深くなります。

 

 戸栗さんにはいいものだけお見せしていました。訳の分からないもの、薄汚いものはだめで、お互いさっぱりしていたから合ったんじゃないか。お世話になった方だし、寂しいよ。しかし、人間誰にでも別れは来る。男ってのはベタベタしちゃいけない。だから私は悲しまないよ。

(2007年11月16日 読売新聞)

 

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■頑固さと情熱はお父さん譲り

 「本当は桃山の茶陶や中国の陶磁を扱いたかった。しかし力がないと立ち入れない世界でね、利益を得るのが難しい。70年にはこれじゃいかんと店を壊した。若かったんだねえ、大黒柱をノコで切り倒して。天井が崩れてきたよ。


在庫も換金して旅に出た。主に美濃地方で、業者や市場を回った。すると自分の知らなかった、あらゆる古物市場がある。それが転機となって、染付が目に留まった。」

自分の目指すものにここまで頑固になるのかと、ここまで情熱的になれるものかと驚きたくなる世界だ。だからこそ、目利きの世界で第一人者になれたのではないかと思う。

その中島誠之助さんの運命式を見てみよう!

 

■中島誠之助さん

タイプ27-37:自分に対する結果や形、スタイルを中心として、自分の価値観、考え方にこだわるタイプ

<中島誠之助さんの運命式>

24 14 30
14 37 26
27 23 33

<中島誠之助さんの流運>

18 15 18 24 18 24 18 24
21 18 21 18 21 18 21 18

 

 中島誠之助さんの運命式からは、
社会的な性格は、心霊数27と本性37でしっかりとしたこだわり、頑固さ、自分の世界を持っていて、その中にあらゆるものを当てはめてみる尺度があります。

そして仕事数30は、自分が一番でリーダー的な強い運勢を持っています。ですから、この頑固でこだわりの性格と強い仕事数30では、自分一人の見識で仕事をしていくのに向いています。

 

しかも、流運を見ると、安定した運勢のある流運の流れなのです。人気数24は人と関わりを持つ運勢もありますし、とてもいいのですが、流運の心霊数21の激しい性格がでてしまいます。こだわりと自分を守る世界がしっかりとあるのに、それを実現するのにあまりに極端に激しさが出てしまうのです。それが、良い意味で回転しているのが、中島誠之助さんです。
これはお父さんの力を引き継いでいるといえるでしょう!

 

■父・文吾氏の運勢

■中島文吾さん

タイプ15-25:自分の価値観、考え方の中で、着実にきまじめに活動するタイプ

<中島文吾氏の運命式>

21 14 18
11 25 14
15 11 21

<中島文吾氏の流運>

18 15 18 24 18 24 18 24
12 18 21 18 21 18 21 18

 

◆本性がよく似ている

 親子二人の運命式を並べてみると、本性がよく似ていることが分かります。文吾氏が本性25、誠之助氏が本性37と価値観重視の二人の本性は意味的に同じなのです。
これは鑑定という価値を評価する仕事ではとても重要なことです。
良い意味で、相続が行われやすいということでもあります。

 

ただ文吾氏の方は仕事数が18でもう少し、静かで作戦を考えながら進めていくのに対して、誠之助氏は仕事数が30で思いっきりの良い明るくリーダー的な、氏が言われるように「江戸っ子」的な気っぷのいい仕事の運勢を持っています。

 

そういう違いはあっても、本性の持つ頑固、こだわりの世界は文吾氏も誠之助氏も同じなのです。

 

■商売のうまさ

 「お客さんの顔を見て、値段を言うのも一つのやり方です。しかし雑器と呼ばれた古伊万里染付だ。発想を転換しないといけない。店の造りは銀座のテーラーを研究した。同業者は出入り禁止。逆に婦人雑誌の料理欄の担当者と知り合って、器を使わないかと。雑誌が出ると全国から注文の電話が来た。たちまち軌道に乗って、700日連続で売れ続けた。」

 

■格がない人には売らない頑固さ
「高買いして、売れなかったもの。だからいいものだ。私は格がない人には売らなかったしね。ただし正直に言うと、たこ唐草は下手(げて)なもんです。いいものは1000点に1点ですよ。そこを分かった上で、たこ唐草なり、古伊万里に取り組んで欲しいよね。中国や桃山時代という原点を勉強して、もう一度古伊万里染付をやると、見方が深くなります。」

 

本性37の自分に対する頑固さというのは、凄いプライドにも通じる。そういう頑固さと筋を曲げない価値観のすごさをしっかりと持っているところが、かえって信頼を骨董の世界では築くのに役立ったはずです。

 

その頑固さがありながら、人気数24は人の中で人のつながりを大切にしていくということから生まれます。骨董という特殊な世界にいるからこそ、この頑固さが財産なのだと思います。それがあるから、かえって人のつながりという人気数24に良い意味で信頼がでたのでしょう!

 

本来は、頑固さは人のつながりという人気運に影を落とすのですが、価値を決める仕事柄中島誠之助さんの場合はいい方向にでているといえます。

 

●ポイント

頑固さに通じる価値観は、これからの大きなポイントになります。価値観の幅を広げていく勉強をしていくことで、もっと大きく良い意味で運命式を使うことができるからです。

 

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