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愛されるって何か? |
安心感のもてる人というのは、自分は愛されているという実感を持っている人です。
子供は親から愛されて守られて育つものであるが、子供の方から見るならば、「愛されている」「周囲の守りがある」と感じて生活することの方が、信じるという力を創ることができるのです。
もしこういう感じ方ができないままに大人になれば、人間にとって基本的な能力である「信じること」ができなくなり、常に何事に対しても不安と懐疑に悩まされることになります。
問題は、守る親の方にあると考えられます。利己的な子や独占欲が強い子は、親の過保護を考えてみるべきです。何故なら、保護される子供の方が、縛られている感じを持ってしまったならば、そこには深い親のエゴイズムがかくされているのです。そして、そのエゴイズムは子供に対してタスクを与えるようになるのです。そのことに気がついていない人が多すぎます。
正しい愛は、相手に束縛間や義務感を与えるものではなくて、もっと人を自由にし、喜びを与え、希望を感じさせるものであるはずです。相手が自分は大切にされているということを感じることが必要なのです。
愛情の本当の意味?
人が成長して大人になっていくというのは、愛情という観点から見れば、「奪う愛情」から「与える愛情」へと変化することなのです。
子供は誰でも当初、親の愛情を独占し奪おうと躍起になります。このときが問題なのです。もし親の方に、深いエゴイズムの動機があるならば、(エゴイズムの動機とは、愛情の方向をいつも自分の方に向けてしまう心の作用のこと)子供の求める愛情を利用しながら、いつの間にか親の方が子供に自己犠牲的献身を求めるようになってしまうことなのです。
一番いい例が、「〜ちゃん!〜してくれたら、これをあげちゃいます!」こういう教育が自己犠牲を強要する親のエゴイズムの表れなのです。子供の欲しているものは、物ではなくて親の愛情なのです。これを反復していくと、物でコントロールするようになり、もはや愛情ではなくなるのです。しかも、子供の方には必ず愛情には代価が必要であるという、絶対的愛情を否定する心を持たせてしまうのです。
ですから、我が家では物は与えません。子供に与えるのは親のほめ言葉と、包容、そして励ましだけです。子供にとって必要なことは、自分が無条件に受け入れられているという「感じ方」なのです。絶対的愛と信頼はこういう土台の上に成り立つのです。
交換条件的愛情は、もっとも悲惨な人間を造り上げてしまうでしょう! 人には自己犠牲の献身を求めながら、自分ほど人を愛している人間はないと思わせてしまうのです。
愛を失ったとき(1)
人はどうせつきあうならば、心の健康な人とつきあうようにしましょう! 心の病んでいる人とつきあうと、いつの間にか自分まで病人になってしまうからです。よく、どんな人にも愛を!などと、気の利いたことをかっこよくいう人がいますが、そういう人こそ信じられません。愛せない人は、どこか心の病を持っている人なのです。
どういう人が心の病を持っているかといえば、相手の犠牲を密かに喜ぶ心を持っている人。一生懸命お礼を言いながら自分の為に犠牲を払う人に喜びを感じる人。こういう人は心のどこかに病を持っているのです。自分の愛を守りたければこういう人とはつきあわないことです。
どうせ!いいんだ。自分なんか! 愛される価値はないんだ!などとうそぶいてカッコつける人や、いじける人がいますが、同情する心がありありです。こういう人は、同情を愛にすり替えて、相手の愛情を奪おうとする人なのです。そして、自分を無価値と信じる人は、どんなにお金を積んでみても、どんなに他の方法で愛を求めてみても、人の愛を信じることができないのです。何故か?愛することは、相手の存在そのものの価値をそのまま認めることであるからです。そうです。愛されるとは、「そこにいてくれるだけでいい」ということなのです。たとい不都合なことがあったり、面倒であったりしても、いてくれることに喜びを感じてもらえること。それが愛されているということなのです。もし神様がいるならば、そういう愛し方をされるでしょう!
貴方はそんな愛を感じていますか?
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