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伊達政宗(1) |
彼こそは戦国乱世、下克上の中にあって、教育こそ生存と人生の勝利、家系の存続を可能
ならしめることを、私達に教えてくれた人物なのです。1567年8月3日、米沢城内において、城主伊達輝宗の第一子として生まれます。母は山形の城主、最上義守の長女、義姫です。
○義姫、結婚の動機、「はい、嫁いで一子を挙げましたら、その子に輝宗の首級を添えて戻てきます。」
○この結婚は、伊達の家臣、中野宗時が最上を通じて逆心の想いを持って結んだ縁組なのです。
○輝宗夫婦は、亀岡文殊堂に願をかけて、祈祷を頼みます。ここには羽黒山の行者、長海法印が住んでいます。(何とぞ、文武の才と忠孝の誉れある男児をお恵み下さいますように。)
○こうして義姫の夢枕に白髪の僧が立ち、宿を借りたいといいます。どうぞお泊まり下さいというと一本の幣束を渡し、これを大切に胎育するようにといって消えたのです。この幣束のことを修験道では梵天と呼びます。従って生まれた子は梵天丸と名づけられたのです。
そしてこの白髪の僧は、役の行者以来の神通力を得た生き仏、万海上人であったというのです。従って梵天丸は、万海上人の生まれかわりになったのです。この万海上人は片目でありました。
伊達政宗(2)
○こうして英雄伝説をしくんで、家臣統一の期待を一身に受けさせ、この英雄伝説の子供を人質にして最上へ帰ろうというのですから、義姫の計画はすさまじいものでありました。
○しかし、人智と自然の摂理では人智が負けるのです。この後義姫はすぐに第二子を腹んで、人質計画は棚上げになってしまい、夫輝宗は梵天丸を万海上人の生まれ代わりと信じて、すぐに梵天丸の教育に取り組んでいきました。乳母、二人の小生、儒学の師、禅学の師虎哉宗乙、武道、そろばんの師、といった具合に英才教育をしていったのです。
○後に羽黒山の長海法印は、護摩祈祷の中に本当に万海上人が現れたと、虎哉禅師に告白しています。
○もともと、人間は無限の可能性の中に、どんな人も生まれてくる。ただ、生まれてくるのに、環境、位置、立場、事情などが種々異なるだけなのです。どんな中にあっても、そこにおける教育で人の善悪、優劣が決まってくるだけなのです。原理、原則にあった正しい知識を与え、それを生活の中に、知恵として生かすことができれば、立派に人は神性、仏性を備えた人格者になってゆくのです。そういう意味では、政宗はすばらしい人間環境の中に誕生してきたといっても過言ではありません。政宗という人物は世に出るべき人物として、成長していったのです。
乳母は一族の増田貞隆の妻政岡
伊達政宗(3)
<まとめ>家系史の基本法則(これまでのまとめ)参照
○無類のお人好で、信心深い輝宗は、義姫の計りごとをそのまま、まともに信じ、行動していったのです。義姫を疑うことになく、自分をしたって嫁ついできたものと信じ、そのように信頼して夫婦関係を結んできたのです。
○義姫も人間である以上、よほどの恨み、憎しみがない限り、実家大切の為に、良人を簡単に裏切るような行動は、一度情を通じてしまうと簡単にはできないものです。それに、義姫には、結婚の動機が悪い為、その胸に計りごとが隠されている為、輝宗の前に出れば、必要以上に良妻ぶることになります。もし、輝宗が良くない夫であれば、仕事を行いやすかったかも知れませんが、輝宗は、あまりに純粋真心から信じてくれたので、これには、義姫も悪魔でない限り、恨み、憎しみを持って裏切ることなど思いもよらず、しばらくは、理想の夫婦を演ずることになるのです。
○人間は不思議なもので、理想の夫婦を演じていると、いつの間にかそのようになってしまうのである。特に、義姫の輝宗に恨みがあるわけではないのですから、なおさらのことです。こうして、夫婦が妊娠していくと、かねてからの計画通り、英雄づくりが始まっていくようになるのです。
○この万海上人うまれかわり伝説も、輝宗は本当に信じてしまったのです。そして、その為にあらゆる準備を用意周到にしだしたのです。こうして、尚更、義姫がつけ入るすきまなどみじんもなくなってしまったのです。 |