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パブロフの条件反射と訓練(3)! |
反復練習=訓練であり、訓練が人間にとって必要でありそうなことはわかったけれども、どういった訓練が人間には必要であり、どの程度のものでなければならないかということが問題になるのである。
ここで、もう一度聖書の物語に戻ってみよう!ここの創世記には、かの有名な失楽園の物語が書かれているのだが、人類最初のアダムとエバに神様は戒めを与えたとあります。それは、「園の中央の木の実はとって食べてはならない。それを食べるときっと死ぬであろう」
この戒めには深い意味があって、これを聞いたアダムとエバは、先ず何故だろう?と考えるようになるでしょう!食べたら死ぬって!どういうことだろうか?そしてこの戒めは繰り返し語られます。結果的に人類は神の戒めを破ったことにより、家庭崩壊をしていくようになるのですから。そのため、それ以後人類は戒めとそれを守る知恵を学ばなければならなくなったのです。このことをパブロフの条件反射に当てはめてみたいと思います。
@人間に言葉を投げかける神という主体が存在した。
A人間は言葉によって"守る"ものがあることを知らされた。
B守れば"生"、守らなければ"死"の二者択一の条件を迫られた。
C人間には、これをどうするかという考える力と、行動の自由が与えられていた。
パブロフの条件反射と訓練(4)!
繰り返し語られる"戒め"、そうすると人間の脳は、この戒めを記憶中枢に保存するようになる。人間は何かがあれば、この記憶中枢から"戒め"を引き出してきて、これはどうなんだろうと考えるようになる。そしてそこには"生か死か"の二者択一の恐怖心がつきまとっていることになるのである。
人間にだけは、ここにパブロフの条件反射に当てはまらないことがある。それは、自由意志なのである。戒め=自らの規範(自分で答えを出さねばならない)=死への恐れ、という条件反射がある一方で、人はそれを乗り越える自由意志をも持っていたのである。
ここに教育の原型があると考えねばならない。これを図式化すると、主体が投げかける言葉=自分で考え答えを出す人間=決定的に間違えば"死"という恐怖心。ところがこれには裏返しがあって、主体が投げかける言葉=自分で考え答えを出す人間=正しければ"生きる"という大きな喜び。
ここに親や先生が考えなければならないポイントがあるのである。言葉を投げかける主体である親や先生が、子供を死へ誘うのか?それとも生の喜びを享受させるのかという点である。何故なら、死か生の選択は人間の自由意志だからであって、たとえ親といえどもこれを侵害することはできないのである。果たして、あなたが親ならばどうしますか?
パブロフの条件反射と訓練(5)!
ソロモンの箴言「わが子よ!どうして遊女に迷い、みだらな女の胸を抱くのか。人の道は主の目の前にあり、主はすべて、その行いを見守られる」
「世には父を呪ったり、母を祝福しないものがある。世には自分の目に自らを清いものとして、なおその汚れを洗われないものがある。ああ、その目のいかに高きことよ、またそのまぶたのいかにつり上がっていることよ。」
「むちと戒めとは知恵を与える、わがままにさせた子はその母に恥をもたらす。」
そろそろ結論を出してみよう!主の訓練とは・・・・・・・・・・・?
言葉による訓練であり、戒めをどのようにして守り、かつどのようにして戒めを実践するかという方法を述べたものであることがわかる。そこで問題なのは、主体である親または先生がどのような言葉を投げかけるかということなのである。それによって、子供のまたは人間の成長は大きく左右されるといっても過言ではないのである。この研究が本当はなされていないのである。
次にもっと大きな問題があることを賢明な皆様はお気づきと思います。
それは、"戒め"が何故人間の創造性をはぐくむのかという点です。
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