占い一言コラム 命名編9
◆命名というものがどのくらい影響があるかといえば、人はただ何となく人生かな?と思う。企業の場合は、創業の動機がそこには隠されている。個人の命名ではそこに誕生の物語がある。命名に込められた想いがある。その想いが伝達されていなければ、いつの日か命名の理想も消え去ってしまい、道を踏み外すことにもなりかねない。命名には成って欲しい目的があるからだ。
◆命名は生まれてくる赤ちゃんがこの世で初めて関わりを持つ因を結ぶ「架け橋」となる。その命名を曖昧にしては、この世との結びつきさえ曖昧になってしまわないであろうか?命名の動機は大切である。しかし、命名が人生を解く暗号であれば、命名から価値を見いだすことができるはずだ。だから、命名の持っている意味はいずれその人にとって人生のミッションとなる。
◆命名の中で最近は個性的な名前が多くなってきた。もちろん名前というのも流行がある。だからその流行の名前をつけることがその時代に生き残る知恵なのかも知れないが、だんだん個性は埋没する。するとまた新たな個性を持った名前が登場する。しかし、運命式が示す個人の生き方は個性的な名前と関わりなく変わらない。
◆命名というのは、その国の歴史や風土、神々とのつながりなど深い関係がある。それを無視した名前というものは考えられない。それほど深い意味合いがあるということなのである。例えば、天皇家には苗字はない。何故ならば、日本人の先祖だからである。その天皇家から姓をいただいて出発したということになっている。そこから歴史を経て苗字というように変化発展しているのだ。姓にも名にもちゃんとしたいわれがあるのだ。だからこそ命名には、姓という伝統とのバランスが大切ということになる。
◆占いによる命名というのは、そんな科学的な根拠のないことを信じてどうするという考えがある。そういう人に申し上げたい。占いは科学ではなくて「価値観」である。どんな価値観や考え方で人を見つめ親子関係を考え、教育を施すかということがそこにはデータとして満載なのである。命名はそういう人間のあらゆる可能性が凝縮されているのであることを忘れてはならない。単なる符号としての命名ならば、そういう人は「バカボン」とでもつければいいではないか。
◆命名を考えるに、うがった見方をすれば、「名は命」と読むことができる。新渡戸稲造は武士道の中で「不名誉は木の切り傷のごとく,時はこれを消さず,かえってそれを大ならしむるのみ」といって、名誉を重んじ名を残すことを目標にした。命名というのは、その人の人生において、名を残すに値する名前でなければならないということである。
◆命名にエピソードはつきものだ。だから、命名で家族や夫婦に一悶着あった方がいいのだ。そういう想い出は感情の中に深く残っているから、命名した子供を余計にいとおしく思えることになる。そしてそれは、その子のエピソードとして語り継がれることになる。それが素晴らしいのだ。自分の子供に名前のいわれを語ってやれることほど幸せなひとときはないはずだ。
◆命名には、親の願いを反映させたいというのは当然だろう!でも、そこに自分の「我」がはいっていないだろうか?まあ、「我」が入るなという方が無理かも知れない。それほどわが子というのは可愛くて期待してしまうものなのだ。だからこそ、その期待を持続させる努力が親には問われることになる。そういうときに命名の持つ意味が大きくなる。
◆改名することは、もう一人の自分を造ることでもある。そして自分のつくったもう一人の自分が本物の自分になる日を待たなければならないのである。だから、自分を造ることができないで終わってしまえば、その名前は死んでしまうのである。もう一人の自分も誕生しなかったのと同じなってしまう。自分自身を造る拠り所に神様や名前は必要なアイテムと思えばよい。ある小説の中で安倍晴明が名前は「呪」であるといったがその通りである。
◆命名でいつも考えることは、人をつくるのは、けっきょっく相乗効果ということになるということだ。主体性が強くて、人のいうことも聞かず、唯我独尊で乱暴者という運命式を持った者も、戦国時代の乱世では英雄になれるチャンスもある。平和な時代では、頭が切れて人間関係の世渡りがうまい者がチャンスをつかんだりする。結局は自分の持っている運命式をその時代や環境にマッチングした者がうまく生き残れることになる。すると時代を読む眼も必要ということになる。
◆命名というのは、赤ちゃんだけではなく商品でも命名はある。
いわゆるネーミングという奴だ。その名前に至るには、ちゃんといわれがあるのだ。
でもいわれだけでその商品の人気が出るわけではない。人気の仕掛けがちゃんとあるのだ。ターゲット層にどうしたら受け入れられるかということなのだ。
商品でもそうなのだから、人の赤ちゃんは尚更である。一生というターゲットを背負っての命名であるからこそ、いっぱい悩んであらゆる可能性を追求して、人生というサイクルまでも考えての命名である。
そういう付けられ方をした人はしあわせだと思う。それだけで愛されているのだ。
◆子年の今年は、繁殖の年でもある。ねずみだからというのではない。他に理由がある。実は手相もそうだが、この位置はちょうど子宝を見るところでもあるのだ。
冬の季節は寂しく辛いときではない。新しい息吹を内包するときなのだ。いつの時代でも、子供に恵まれるというのは一番めでたいことなのである。
だからこそ、今年は子宝(優れた質的に高い子供)になるような命名を心がけたいと思う。希望を生みふやせる年にしよう!
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